アゼルバイジャンの歴史年表

アゼルバイジャンの国旗

 

アゼルバイジャンの国土

 

アゼルバイジャン(正式名称アゼルバイジャン共和国)は 東ヨーロッパ(西アジア)の コーカサス地方、カスピ海西岸に位置する 共和制国家です。国土は カスピ海沿岸部・大コーカサス山脈・中央平原・クラアラクス低地などで構成され、変化に富む地形の影響で気候が多様です。首都は カスピ海に突き出た天然の良港で、大規模な油田があることでも知られる バクー。

 

この国では 灌漑農業が発達しており、中でもクラ川・アラス川流域における綿花・ブドウ・野菜・茶の生産がさかんです。また天然ガス・石油・鉄鉱・岩塩など豊富な資源を背景にした採掘業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんなアゼルバイジャンの歴史は、紀元前10〜9世紀頃アゼルバイジャン最初の国家とされるマンナイの成立まで遡ることができます。マンナイ滅亡後はアケメネス朝ペルシア、マケドニアなどの支配を経て、アゼルバイジャンという名の起こりとなったアトロパテネという名の国家が誕生。中世以降はササン朝ペルシア、アラブ、セルジューク朝、イランなどの支配を経て、19世紀にはロシア領に落ち着きました。そして20世紀ロシア帝国崩壊後は、ソ連構成共和国の一つアゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国が成立し、1991年8月にアゼルバイジャン共和国としてソ連から独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアゼルバイジャンの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代アゼルバイジャン

古代アゼルバイジャン地域は、豊かな文化と多様な民族が交錯する交易の中心地でした。この地域はカスピ海とコーカサス山脈に挟まれ、多くの文明との交流があり、様々な強大な帝国と王国の影響下にありました。

 

最初はマンナ王国がこの地を支配し、後にメディア王国が台頭。アケメネス朝ペルシアがこの地を一時期支配した後、アレクサンドロス大王に征服され、セレウコス朝の一部となりました。カスピ海南西部に位置するカフカス・アルバニア王国もこの地域に成立し、ローマとササン朝ペルシアの影響を受けながら独自の文化を発展させました。

 

ササン朝の時代には、この地域はペルシア文化の影響を強く受け、ゾロアスター教や後にイスラム教が広まりました。これらの歴史的動向は、アゼルバイジャンが古代から多様な文化的影響を受ける土壌を形成していたことを示しています。

 

前9世紀〜前6世紀 マンナ王国の時代

紀元前9世紀には、現在のアゼルバイジャン領域にマンナ王国が栄えていました。この時代は、地域の初期国家形成期とされています。マンナ王国は、豊かな農地と牧草地に恵まれた地域で、農業と牧畜を中心とした経済活動が行われていました。また、マンナ人は高度な青銅器製造技術を持ち、金属加工や工芸品の生産で知られていました。さらに、周辺の強力な国家や部族との外交や戦争も頻繁に行われており、その中で自らの独立を守りながら発展を遂げていました。

 

前6世紀〜前4世紀 メディアとアケメネス朝ペルシアの支配

紀元前6世紀にメディア王国の支配を受け、後にアケメネス朝ペルシアの一部となりました。この時代、地域はペルシア文化の影響を強く受けました。

 

前4世紀〜前1世紀 アレクサンドロス大王とセレウコス朝

アレクサンドロス大王の遠征により、一時的にギリシャ文化の影響を受けます。その後、セレウコス朝の支配を経て、地域はさらに多様な文化的影響を受けました。

 

前1世紀〜3世紀 カフカス・アルバニア王国の支配

前1世紀、古代カフカス・アルバニア王国が現アゼルバイジャン地域に成立しました。これは、現在のアゼルバイジャン地域を中心とした王国で、古代ローマとも交流がありました。カフカス・アルバニア王国は、戦略的に重要な位置にあり、東西の交易路の交差点として繁栄しました。また、ローマ帝国との交流により、文化や技術の交流が進み、都市建設やインフラ整備が促進されました。宗教的には、多神教が信仰されていましたが、3世紀にはキリスト教が広まり始め、後に国教となりました。この時代の遺跡や文献は、カフカス・アルバニア王国の高度な文明と繁栄を物語っています。

 

3世紀〜7世紀: ササン朝ペルシアの支配

アゼルバイジャンは、3世紀からササン朝ペルシアの支配下に入り、ペルシア文化が再浸透していきます。この時期、ササン朝は中央集権的な統治を確立し、アゼルバイジャン地域にもその影響が広がりました。ペルシアの行政制度や法律、建築様式が導入され、ゾロアスター教が広く信仰されるようになりました。経済的には、ササン朝の下で交易が活発に行われ、シルクロードを通じて東西の文化や商品が交流しました。さらに、ササン朝の庇護のもとで文学や科学が発展し、アゼルバイジャンの知識人や学者たちはこの繁栄に貢献しました。この時代の影響は、後のアゼルバイジャン文化にも深く根付いています。

 

中世アゼルバイジャン

中世アゼルバイジャンは、イスラム化の進行と共に、様々なイスラム王朝の支配を受けました。8世紀にアラブのウマイヤ朝、後にアッバース朝に征服され、イスラム教が広まりました。11世紀にはセルジューク朝の支配を受け、この時代にはトルコ系民族の流入が増加しました。後にはモンゴルの侵攻を経験し、イルハン朝がこの地を支配。14世紀にはティムール帝が侵入し、その後はカラコユンルやアクコユンルといったトルコ系の部族連合が支配を確立しました。

 

これらの時代を通じて、アゼルバイジャンは東西の文化が交流する場としても機能し、ペルシャ文化の影響も受けつつ、独自のイスラム文化を育んでいきました。中世においてアゼルバイジャンは、多様な支配層と文化的影響が交錯する複雑な歴史を辿ったのです。

 

1258年 モンゴル帝国の支配

中世アゼルバイジャンは、チンギス・ハンの孫、フレグ・ハンの建国したイル・ハン国によりモンゴル帝国の間接支配を受けるようになります。この時期、イル・ハン国はアゼルバイジャンの都市や文化に大きな影響を与え、特に、タブリーズがイル・ハン国の首都となり、経済と文化の中心地として繁栄しました。モンゴルの統治下で、商業や工芸、建築が発展し、イスラム文化とモンゴル文化の融合が見られました。また、学問や医学の分野でも進展があり、タブリーズは知識人や学者たちの集う場所となりました。

 

イル・ハン国は、モンゴル帝国の一部として、その広大な領土の中で重要な地位を占めていました。フレグ・ハンは、アバカ、ガザン、オルジェイトゥなどの後継者たちによって続けられる王朝を築き上げ、モンゴル帝国の歴史において重要な役割を果たしました。この時代のモンゴル帝国は、広範囲にわたる文化的、経済的交流を促進し、中央アジアと中東の歴史に大きな影響を与えたのです。

 

1501年 サファヴィー朝の創始


アルダビールのサファヴィー家によりサファヴィー朝が創始する。アゼルバイジャンはサファヴィー朝のもとで養蚕業が発展し、17世紀までに世界有数の養蚕地域となった。

 

近代アゼルバイジャン

アゼルバイジャンは、19世紀にロシア帝国の一部となりました。これにより、西欧の影響を受けた近代化が進んだものの、同時に地域の伝統との緊張も生じました。石油資源の発見により、バクーは世界的な石油産業の中心地となり、経済的に急速に発展しました。

 

20世紀初頭には、民族意識の高まりとともに独立運動が活発化し、1918年には短期間ですがアゼルバイジャン民主共和国として独立を果たしましたが、1920年にソビエト連邦による侵攻を受け、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立しました。

 

近代におけるアゼルバイジャンは、外部の政治勢力による支配と国内の抵抗が交錯する激動の時代でした。

 

1813年 ゴレスターン条約

カージャール朝とロシア帝国との間でザカフカス地方の領有を巡るゴレスターン条約が締結される。次いで1828年にはトルコマンチャーイ条約が締結され、アゼルバイジャンの北部がロシアに併合される結果となった。

 

1870年 農奴解放

農奴解放により資本主義社会の形成が始まる。とりわけ石油産業が成長し、バクーは20世紀までに世界の産油量の二分の一を産出する世界有数の産油都市となった。

 

この時期、バクーは世界の産油量の約半分を産出し、世界的に重要な石油産業の中心地となりました。

 

この石油ブームは、国際的な投資家や企業の関心を引き、多くの外国資本が流入しました。このことは、技術革新と産業インフラの発展を促し、さらに経済成長を加速させました。また、バクーの石油産業は、第一次世界大戦中の主要な石油供給源としても重要な役割を果たし、戦時経済において重要な位置を占めました。

 

この経済的繁栄は、バクー及びアゼルバイジャン全体の社会的・文化的発展にも影響を及ぼし、新たな労働階級の出現や都市化の加速、教育や文化の発展など、多方面にわたる変化をもたらしました。しかし、この急速な産業成長は、環境問題や労働条件の悪化などの課題も引き起こしました。

 

1918年 アゼルバイジャン民主共和国の成立

ロシア革命(1917年)と帝政ロシアの崩壊を背景に、1918年5月28日、アゼルバイジャン民主共和国が宣言されました。これはムスリム国家としては初の民主的共和国であり、女性にも投票権を認めるなど、進歩的な法律が導入されました。首都はガンジャに置かれ、後にバクーに移されました。この共和国は、アゼルバイジャン人による民族自決の象徴として重要であり、現代アゼルバイジャンの基盤を築きました。

 

1920年 アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の成立

1920年4月28日、赤軍はアゼルバイジャンに侵攻し、民主共和国を倒す。4月28日、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国(アゼルバイジャンSSR)が成立。この政変により、アゼルバイジャンはソビエト連邦の一部となり、その後数十年にわたって共産主義政策が施行された。

 

1922年 ソ連に参加

1922年12月30日、アゼルバイジャンSSRは他のソビエト共和国とともにソビエト連邦の創設メンバーとなりました。これによりアゼルバイジャンはソビエト連邦の構成共和国の一つとなり、中央政府の厳格なコントロール下に置かれました。この時期は、産業化、集団化、およびロシア化政策が推進され、アゼルバイジャンの政治、経済、文化に深い影響を与えました。

 

1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争(〜94年)

アルメニアとの間で、ナゴルノ・カラバフ自治州を巡る武力衝突が勃発。住民の8割がアルメニア系のナゴルノ・カラバフ自治州が、アゼルバイジャンからの独立(アルツァフ共和国の建国)を宣言したことがきっかけとなった。決着がつかないまま1994年停戦が成立。この紛争は長期間にわたる緊張と不安定さの原因となり、終結には至らず、2020年に再度衝突が起こるまで未解決の状態が続いた。

 

現代アゼルバイジャン

1991年にソビエト連邦からの独立後、アゼルバイジャンは多くの挑戦に直面しました。特にナゴルノ・カラバフ地域での紛争は国内外政に大きな影響を与えています。経済面では、石油と天然ガスの豊富な資源を活用して経済発展を図り、特にバクーを中心に大規模なインフラ整備が進行しました。政治的には、長期にわたるアリエフ家の支配が続いており、国内外からの人権や民主主義の問題についての批判も存在します。国際関係では、欧州やロシア、トルコといった近隣諸国との関係を深めつつ、独立と地域の安定を目指しています。アゼルバイジャンは戦略的な地理的位置と資源を生かし、地域的な影響力を拡大している国です。

 

1991年 アゼルバイジャン共和国の成立

1991年8月30日、アゼルバイジャンはソ連からの独立を宣言し、国名をアゼルバイジャン共和国に改称しました。これはソビエト連邦の崩壊の一環として行われ、アゼルバイジャンは完全な主権国家としての地位を確立しました。独立宣言は、政治的自由と経済的改革の希望とともに、新たな国際関係の構築を目指したものでした。しかし、同時期のナゴルノ・カラバフ戦争とその後の内政問題は、新たな国家の安定と発展に大きな挑戦をもたらしました。

 

2001年 欧州評議会に加盟

2001年1月25日、アゼルバイジャンは欧州評議会に正式に加盟しました。これはアゼルバイジャンが欧州の主要な政治組織の一員となり、欧州諸国との協力と統合を目指す重要なステップでした。欧州評議会への加盟は、民主主義、法の支配、人権の尊重といった基本的な価値の共有を意味し、アゼルバイジャンの国際的地位を高め、国内の政治・法制度の改革を促進する契機となりました。

 

2020年 ナゴルノ・カラバフ紛争

2020年9月、長年の緊張が再び激化し、アゼルバイジャンとアルメニア間でナゴルノ・カラバフ地域を巡る紛争が再発しました。この約1か月半にわたる衝突は、過去数十年間の停戦状態の後に起こり、両国間の既存の敵意を再燃させました。アゼルバイジャンはナゴルノ・カラバフ地域の広範な部分の支配を取り戻しましたが、多くの民間人と兵士が犠牲になりました。2020年11月、ロシアの仲介により、両国間で新たな停戦合意が成立しましたが、この地域の緊張は依然として高いままです。

 

アゼルバイジャンの歴史は、多様な文化と影響を受けながら形成されてきました。古代のマンナ王国から始まり、メディア、アケメネス朝、アレクサンドロス大王、セレウコス朝、カフカス・アルバニア王国といった多様な統治者による支配を経て、ササン朝ペルシアの影響を受けた時代を迎えました。その後、イル・ハン国によるモンゴル帝国の間接支配、サファヴィー朝の成立、ロシア帝国の併合、ソビエト連邦の一部としての歴史を経て、1991年に独立を果たしました。

 

現代に至るまで、アゼルバイジャンは多くの挑戦と変革を経験し、特にナゴルノ・カラバフ紛争は国内外に多大な影響を与えました。しかし、同時に欧州評議会への加盟や経済改革など、国際社会との協力を深め、独自の発展を遂げています。アゼルバイジャンの豊かな歴史と多様な文化は、現在の国家のアイデンティティと未来への展望を形作り続けています。歴史の中で培われた強靭さと適応力が、アゼルバイジャンのさらなる発展と安定に寄与することを期待します。