ピウス7世とは何をした人?〜ナポレオンと政教協約を結ぶ〜

 

ピウス7世の基本情報

 

本名:ジョルジョ・バルナバ・ルイジ・キアラモンティ
誕生:1742年チェゼーナ
死没:1823年ローマ
在位:1800年3月14日-1823年
政策:フランスと政教協約(コンコルダート)を締結し、フランスとカトリック教会の関係を修復。

 

ピウス7世(1742年 - 1823年)は、激動のナポレオン戦争時代のローマ教皇です。貴族の生まれで、1756年ベネディクト会に入ってから頭角をあらわし、修道院院長、司教、枢機卿など要職を歴任。1799年ピウス6世の死を受け、コンクラーヴェ(教皇選挙)が行われ、教皇に選出されたのです。

 

彼が就任後まず取り組んだのは、フランスとの関係修復でした。就任直前まで続いていたフランス革命は反カトリック運動としての性格も孕んでいたので、フランス革命を終息させ、独裁的な権力を握っていたナポレオン・ボナパルトに接近。政教協約(コンコルダート)を締結し、フランス政府とカトリック教会の関係を修復させたのです。

 

しかしナポレオンはこの協約を自身の権威強化のために徹底的に利用したため、教皇権の後退という結果も招きました。さらにナポレオンは利用するだけに留まらず、教皇領支配を画策し、1809年ローマを占領。ピウス7世を幽閉してしまったのです。1814年ウィーン会議で復権を果たしますが、失墜した権威が回復することはありませんでした。

 

 

ピウス7世とナポレオンの関係

ピウス7世が教皇に就任した1800年は、フランス革命とそれに連なる革命戦争により、欧州全土で旧体制に対する反抗が相次いでいた混乱期で、旧体制の一角をなすカトリック教会の権威回復が、即位後目下の課題でした。

 

そしてその手始めとして、フランスの実権を握っていた第一執政のナポレオン・ボナパルトに接近し、1801年にはフランス革命以降断絶していたフランス政府とカトリック教会の関係を修復する協約を締結させています。

 

関係の悪化

しかしナポレオンは教皇を政治的に利用することしか頭になく、それを隠そうともしなかったので、両者の関係は急速に悪化していきました。ナポレオンが教皇領を占領したことで、ピウス7世は限界とばかりにナポレオンを破門するのですが、ナポレオンから捕縛・監禁という形で反撃されてしまいます。

 

以後ナポレオン失脚まで教皇の地位を追われていたのですが、ピウス7世はその後、ナポレオンの一族をローマにかくまったり、死の間際のナポレオンの為にセント・ヘレナ島に司祭を派遣したりするなどしており、彼の懐の広さがうかがえます。