フルシチョフとは何をした人?〜スターリン批判・米ソ共存路線(雪解け外交)〜

 

フルシチョフの基本情報

 

本名:ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ
誕生:1894年カリノフカ
死没:1971年モスクワ
政策:スターリン批判/米ソ共存路線(雪解け外交)

 

フルシチョフ(1894年 - 1971年)はソ連の政治家で、とりわけ「スターリン批判」を行い、米ソ冷戦の緩和に尽力した人物として有名です。炭鉱夫の家に生まれ、1918年共産党に入党後、ロシア内戦では赤軍として、第二次世界大戦ではウクライナ防衛戦線で活躍しました。スターリン死後第一書記に就任し、1956年スターリン個人崇拝を痛烈に批判し、国内外に衝撃を与えました。反フルシチョフ勢力を一掃したうえで1958年最高指導者となり、渡米しアイゼンハワー大統領と会談を行うなど米ソ共存路線(雪解け外交)を推進しました。ただアメリカとの宥和が進んだ一方で、スターリン批判をきっかけに中国との関係は悪化。さらに農業生産の停滞や党機構改革に対する大反発で体制の基盤が揺らいでいき1964年に失脚しました。引退後は年金生活による余生を過ごしています。

 

 

フルシチョフの偉業・功績

「雪解け」を実現

フルシチョフは1956年に開かれた党大会でスターリン批判を行い、国内の民主化や軍縮の推進、それにともなう西側資本主義国との緊張緩和を実現させたことが、人類普遍的な功績の1つとして挙げられるでしょう。ソ連の指導者として初めてアメリカを訪問するなど、その平和共存外交でもたらされた東西勢力の関係改善は「雪解け」と表現されています。

 

宇宙開発の推進

フルシチョフは宇宙開発事業に多くを投資し、スプートニクやボストークの打ち上げを成功させています。これで冷戦開幕以来激化していた宇宙開発競争においてアメリカを大きく引き離したのも、ロシア側から見たフルシチョフの功績の1つといえます。

 

フルシチョフとゴルバチョフの違いや関係

フルシチョフは4代目の書記長。ソ連における国際的地位が最も高かった時代の書記長でもあります。他方ゴルバチョフは8代目にしてソ連最後の書記長。社会主義体制の行き詰まりで、経済が低迷し、国際的地位が著しく低下していた時代の書記長でもあります。

 

どちらも大胆な党内改革を行い、米ソ共存路線を目指したという点では同じ。ただフルシチョフは中国との敵対姿勢を打ち出したのに対し、ゴルバチョフは友好路線を選択、訪中により国交を正常化し、フルシチョフ時代からの中ソ対立に終止符を打っている・・・といった違いはわかりやすいでしょう。

 

また関係性については2人は異なる世代の人間なので、直接的な関係は薄いのですが、フルシチョフの登場で共産党内に「党内改革派」という立場ができなければ、ゴルバチョフという人間の台頭もなかった、という間接的関係性は非常に重要です。