ディアドコイ戦争は、アレクサンダー大王の死後に彼の将軍たち(後継者=ディアドコイ)が彼の広大な帝国の支配権を巡って行われた一連の戦争です。それらの戦争は大まかに紀元前322年から紀元前275年までの約50年間に渡り続けられました。しかし、「最終的な勝者」が誰であったのかという問いは、それ自体が興味深い議論を引き起こします。
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ディアドコイ戦争の終結は、一般的には紀元前275年のアンティゴノス家とプトレマイオス家の間の戦い、つまり、プトレマイオス2世とアンティゴノス2世の間のコリントスの戦いとされています。しかし、これらの戦争の結果として形成された国々はその後も存続し、総じて「最終的な勝者」はいないとも言えます。
それぞれのディアドコイは自分たちの領地を形成・維持し、アレクサンドロス帝国の断片を自己の王国として引き継ぎました。これらはセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアなどです。
ディアドコイ戦争後、最も広い領土を獲得したのはセレウコス朝です。この王朝はアレクサンダー大王の元将軍、セレウコス一世によって創設され、彼の死後もその子孫によって継承されました。
セレウコス朝の領土は、西はエーゲ海から東はインダス川まで及び、現在のトルコ、シリア、イラン、イラク、レバノン、パキスタンなどの地域を含んでいました。この広大な領土はアレクサンダー大王の帝国の大部分を占めていたため、彼の後継者たちの中では最も広い領土を獲得したと言えます。
セレウコス朝シリアの大まかな支配領域
こう聞けば、勝者はセレウコス朝なのでは?と思われるかもしれませんが、セレウコス朝の統治はアレクサンダー大王の統治時代のような一体性を維持することはできず、絶えず内部の反乱や外部の侵攻に悩まされました。最終的にはローマによって征服され、その広大な領土も分割されることとなりました。
結論として、「ディアドコイ戦争の最終的な勝者」を一人または一派に絞り込むことは難しいです。なぜなら、戦争の結果、アレクサンダー大王の帝国はいくつかの強力なヘレニズム王国に分裂し、それぞれが一定の期間繁栄したからです。その意味では、各ディアドコイやその後継者たちが、それぞれの地域で「勝者」であったと言えるでしょう。
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