南下政策

南下政策

南下政策は、18世紀以降ロシア帝国が「不凍港」獲得のためとったバルカン半島・中央アジア方面への進出政策です。この政策は、ロシアの勢力拡大を恐れる列強国との対立を生み、数々の国際紛争に発展していきました。

 

 

 

南下政策の背景

不凍港というのは年間を通じて氷結することのない港のこと。ロシアは国土の大部分が高緯度なため、冬には多くの港が凍結してしまいます。そのため「不凍港の獲得」は経済的にも軍事戦略上でも「国家的な悲願」となり、1696年ピョートル1世のアゾフ遠征以来本格化していきました。

 

南下政策の開始

黒海・バルカン半島への進出

黒海およびバルカン半島への進出は、オスマン帝国との抗争の中で進んでいきました。戦いはロシア帝国優位で進み、19世紀後半には、クリミア半島を領土に持つクリム・ハン国の併合(1783年)にともない、黒海沿岸の拠点を獲得しています。“黒海艦隊”により黒海の覇権を確立したことでバルカン半島への進出も一気にやりやすくなりました。

 

しかしクリミア戦争(1853年)が勃発すると、ロシアの伸長を恐れたイギリスフランスがオスマン帝国に加勢。結果ロシアは敗北し、「黒海の非武装中立化」の決定を受け、黒海艦隊は解散されてしまいます。

 

さらにビスマルクの仲介で行われたベルリン会議(1878年) で、バルカン諸国の独立や自治、オーストリアによる支配が確立されたことで、ロシアはバルカン半島における覇権を失ってしまうのです。黒海・バルカン半島方面への南下政策は失敗に終わりました。

 

 

 

中央アジアへの進出

ロシアの中央アジア方面への進出は、19世紀前半から開始されました。まず中央アジアのカザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海の支配を確立し、19世紀後半にはブハラハン国,ヒバ両ハン国,コーカンド・ハン国ら3ハン国とトルクメニスタンを編入することで、中央アジア支配を完全なものにしています。西トルキスタンのトルキスタン総督府がその拠点とされていました。

 

南下政策の影響

南下政策の中において、バルカン半島から中央アジアの間で展開された大英帝国とロシア帝国のにらみ合い・情報戦は、“チェス戦”になぞらえて「グレート・ゲーム」と呼ばれています。

 

とくにバルカン半島を射程としたロシアの南下政策は、スラヴ民族の独立運動や欧州列強の介入、オスマン帝国との対立を促し、「ヨーロッパの火薬庫」と表現される一触即発の緊張状態を生み、第一次世界大戦を引き起こす原因になりました。