第二次世界大戦終結後、ドイツを境にヨーロッパが西側陣営(資本主義陣営)と東側陣営(共産主義陣営)に二分され、東西冷戦が激化していきました。
東ヨーロッパ・西ヨーロッパの範囲には色々な解釈があるものの、現在東ヨーロッパ・西ヨーロッパと呼ばれる国々と、冷戦時代に東ヨーロッパ・西ヨーロッパと呼ばれた国々は同一視しない方がいいでしょう。
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冷戦時代の区分は
というざっくりした区分です。そのため、東欧・西欧・南欧・北欧・中欧などと細かく分けられている現在の地域区分とは合致しません。
東側、西側という表現は1946年にウィンストン・チャーチルがアメリカで行った「ドイツを境にヨーロッパに鉄のカーテンが降ろされた」という有名な演説からです。この「鉄のカーテン」は、ヨーロッパを東西に分断し、東側はソビエト連邦を中心とした共産主義諸国、西側はアメリカ合衆国を中心とした資本主義諸国を意味しました。
◆冷戦期の「東ヨーロッパ諸国」
ソビエト連邦/チェコスロバキア/東ドイツ/ハンガリー/ブルガリア/ポーランド/ルーマニア/アルバニア
◆冷戦期の「西ヨーロッパ諸国」
アイルランド/イギリス/オランダ/西ドイツ(ドイツ連邦)/フランス/ベルギー/ルクセンブルク/イタリア/ギリシャ/キプロス/スペイン/トルコ/ポルトガル/デンマーク/ノルウェー
東西冷戦時代におけるヨーロッパの東西の境界線は、主にドイツとベルリンを二分したものでした。西ドイツはアメリカ、イギリス、フランスの影響下にあり、西側諸国の一員として資本主義経済を採用。一方、東ドイツはソビエト連邦の支配下にあり、共産主義体制を敷きました。この分断は、ベルリンの壁という形で具体化され、西側と東側の象徴的な境界となりました。
冷戦期の地理的・政治的な区分は、現在の国際関係や地域分類とは異なるため、当時の状況を理解するには歴史的な背景を考慮する必要があります。東ヨーロッパは、ソビエト連邦の衛星国として共産主義体制を維持し、西ヨーロッパはアメリカの支援のもとで資本主義経済と民主主義を発展させました。この対立構造が、冷戦期の国際政治の基本的な枠組みを形成したのです。
東西冷戦時代の「東西」とは、地理的な位置だけでなく、政治的・経済的な体制の違いを反映したものでした。現在のヨーロッパ地域区分とは異なり、冷戦期の東西ヨーロッパの区分は、冷戦時代の国際政治の文脈で理解する必要があります。東側、西側の対立は、ヨーロッパだけでなく、世界全体の政治・経済に大きな影響を与え、冷戦後の国際秩序にも影響を及ぼしました。
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