東ローマ帝国の建国者って誰なの?

東ローマ帝国は、395年、分裂したローマ帝国の東方領土として成立しました。そのため古代ローマロムルスのような建国者らしい建国者はいません。そもそも「東ローマ帝国」とは後世に付けられた名称で、当時の人たちは西ローマ帝国も含めて同じローマ帝国という認識を持っていたので、「東ローマ帝国を建国した。」という認識自体持っていなかったのです。しかしあえて「建国者」を挙げるならば、ローマ帝国を東西に割った人物や、初代皇帝、さらには首都をコンスタンティノープルに定めた人物などが相当するのではないかと思います。

 

 

テオドシウス1世

テオドシウス1世(テオドシウス帝はローマ帝国を息子2人に分けあたえ東西を分割させた皇帝です。347年にローマ帝国の上級将校だった大テオドシウスの子として生まれます。21歳となった368年にはブリタニアン(現在のイングランド南部にあった属州)で起こった反乱の鎮圧に父とともに赴き軍司令官として活躍しました。

 

376年に父が謀反の疑いで処刑されると一度は故郷に帰りましたが、378年に東帝ウァレンスが死ぬと西帝のグラティアヌスより東帝の共同皇帝に任命されます。共同皇帝として東方を統治することとなったテオドシウス1世は比較的安定した統治を行います。

 

また、西方にも介入し西方正帝ウァレンティニアヌス2世の後見人となったほか、392年にウァレンティニアヌス2世が死ぬと自身の次男ホノリウスを西方正帝に置きました。これによってテオドシウス1世はローマ帝国の東西を実質的に単独支配することになりました。

 

西ローマ帝国と東ローマ帝国の始まり

そして、395年1月にテオドシウス1世は亡くなりますが、その死に際に長男アルカディウスに帝国東方を、次男ホノリウスに帝国西方を分割統治させました。これが西ローマ帝国と東ローマ帝国の始まりと言われています。

 

テオドシウス1世が息子達に国を分け与えたのは民族移動時代(ゲルマン民族の大移動)に対応するためといわれています。

 

ローマ帝国の分割統治はテオドシウス1世以前から行われていましたが、テオドシウス1世の分割以降のローマは明らかに東西で、政治的・文化的・経済的に違う道を歩んだため、同じ系統の別の国として扱われるのです。

 

 

アルカディウス

テオドシウス1世の死後、東ローマ帝国の初代皇帝になったのがアルカディウス(在位:383年〜408年)です。アルカディウスはテオドシウス1世の長男として生まれ、383年には6歳でローマ帝国東方正帝となります。395年の父の死後、皇帝となったアルカディウスですが、政治にはあまり関心を示さなかったと言われています。

 

しかし政治的野心が希薄だったのが逆に功を奏したのか、彼の治世は25年という長期政権となり、摂政フラウィウス・アンテミウスのもと帝国は大きな混乱もなく栄えたとされています。彼の治世で好スタートを切ったのを皮切りに、東ローマはその後1000年以上も存続することとなるのです。

 

コンスタンティヌス1世

教皇シルウェステル1世と皇帝コンスタンティヌス

 

テオドシウス1世やアルカディウスより90年程前に活躍したコンスタンティヌス1世も、ある意味で東ローマ帝国の建国者と言ってもいいかもしれません。コンスタンティヌス1世は270年に生まれ、306年から312年までは西方副帝、312年から324年までは西方正帝、そして324年から亡くなる337年まではローマ全体の皇帝となりました。また、キリスト教を信仰した初めてのローマ皇帝としても知られ、主要なキリスト教諸派から聖人と見なされています。

 

コンスタンティノープルを建設

そんなコンスタンティヌス1世ですが、彼が東ローマ帝国の建国者の1人と言ってもいい理由は、後の東ローマ帝国の首都となるコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)の建設者であるためです。東西交易の要衝としてこの地に注目したコンスタンティヌスが、自身の名をとり、この地に都市コンスタンティノープル(「コンスタンティヌスの町」という意味)を建設し、ローマ帝国の首都としました。以来コンスタンティノープルはローマ帝国の経済・文化・歴史・宗教の中心地となっていき、後の東ローマ帝国の国家的基盤を築き上げていったのです。