イタリアが参戦した理由は?

第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月にかけ、枢軸国(イタリア・ドイツ・日本など)と連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など)との間で行なわれた、全世界を舞台にした史上最大規模の戦争です。ナチスドイツによるポーランド侵攻(1939年9月)と、それを受けた英仏の対独宣戦から始まり、独ソ戦、太平洋戦争と戦線が一挙に拡大していきました。反ファシズム、帝国主義、民族自決など、色々な性格がからみあった複雑な戦争としても知られます。

 

このページの内容
  1. 参戦理由
  2. 苦戦
  3. 休戦
  4. 降伏
  5. 内戦
  6. 終戦

 

参戦理由

第二次大戦勃発時(1939年9月)のイタリアは、枢軸国陣営としてドイツの味方という立場でしたが、国の指導層はこの戦争に関わることに消極的でした。当時、第一次大戦による不況の煽りはまだ続いており軍備が不十分なほか、重要な貿易相手国の米英と対立することはデメリットが大きすぎたからです。

 

しかしドイツのフランスに対する快進撃を目の当たりにすると、軍部や王党派に次々と参戦派に鞍替えする者が現れます。そしてフランスの敗北が決定的なものとなり、米ソが中立を保つ様子を見ると、「イギリス降伏による早期終戦」という想定で、1940年6月10日英仏に宣戦布告を行なったのです。

 

苦戦

しかしその想定は希望的観測に過ぎませんでした。イタリア軍の近代化の遅れは予想以上に痛手となり、アフリカ戦線では数の上では有利だったにも関わらずイギリス軍に押し返され、バルカン半島では格下扱いしていたギリシャにまで大変な苦戦を強いられます。

 

さらにアメリカの参戦で長期戦は決定的なものとなり、深刻な資源不足によるドイツ依存から、イタリアはドイツ傀儡としての性格を強めていきました。戦局の悪化にともない国内経済は疲弊し、国民の間の反ムッソリーニ・厭戦ムードは日に日に高まっていきました。

 

休戦

43年に入る頃には、連合国側に形勢が完全に傾いており、好戦的だったファシスト党や王党派の中から休戦を求める声が上がり始めます。しかしムッソリーニは依然としてドイツと歩みを共にする戦争継続を主張していました。

 

そうこう国内で意見が割れている間に、対独戦線の重要拠点であるイタリア(チャーチルは「ヨーロッパの下腹部」と呼びました)を抑えるべく、連合軍はシチリア上陸作戦(ハスキー作戦)を決行。弱り切ったイタリア軍は為す術なく上陸を許してしまい、もはやこれが限界とみて、休戦派による連合国との秘密裏の休戦交渉が始められました。

 

降伏

イタリアを破滅の危機に陥れたとして、ファシズム大評議会で首相退任要求決議(通称グランディ決議)がムッソリーニに対し出されます。王国の存続を危惧した当時の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がこの決議を支持し、賛成多数でムッソリーニは首相から解任・逮捕されてしまいました。首相の後任にはピエトロ・バドリオが選ばれました。

 

裏切

ムッソリーニの失脚を受け、連合国は「イタリア政府の休戦と無条件降伏」を勝手に公表し、シチリア島よりイタリア半島南部へ侵攻を開始します。バドリオ政権には寝耳に水の事態でしたが、これ以上の抵抗は不可能とみて、43年9月に無条件降伏を受け入れる声明を発表。枢軸国を離脱し、翌10月にドイツに宣戦布告しています。一方ヒトラーはこの「裏切り」を受け、すぐさま北イタリアへ進軍を開始しました。

 

内戦

1943年9月13日、ムッソリーニはドイツの特殊部隊によって解放されます。そして北イタリアの街サロにイタリア社会共和国を建国し、イタリア北進を図る連合国への抵抗を開始しました。これによりイタリアは連合国、ドイツ、ドイツ傀儡のイタリア社会共和国、さらに第三局のパルチザンが加わる、泥沼の内戦状態に突入します。

 

北部防衛戦を連合国が突破する速度は予想以上で、1945年4月にイタリア社会共和国の崩壊が決定的になると、ムッソリーニはスイスへの亡命を図りました。しかし国境を越える前にパルチザンに捕えられ、裁判を受ける間もなく処刑されました。

 

終戦

1945年5月にドイツが、8月に日本が降伏したことにより第二次世界大戦は終結。イタリアは終戦時連合国側だったので、一応戦勝国となりました。戦後、サヴォイア王家はファシズム独裁に協力した責任を問われ、王制存続の是非を問う国民投票にかけられ、僅差で王制廃止派が上回ったことで、国外に追放されました。そしてイタリアは共和制国家として歩みを新たにし、現在に到ります。

 

 
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