ウィーン体制はヨーロッパ列強が協調し、革命運動や領土変更を抑制したことが特徴である。複数国間の外交会議と軍事同盟が秩序維持の柱となった。本ページでは、このあたりの歴史的背景と後世への影響について詳しく掘り下げていく。

ウィーン体制の崩壊理由
ウィーン体制はヨーロッパ各地での民族運動や自由主義運動の高まりによって崩壊した。特に1848年革命は体制を根底から揺るがした。本ページでは、このあたりの歴史的背景と後世への影響について詳しく掘り下げていく。
1815年、ナポレオン戦争後の戦後処理として構築されたウィーン体制が崩壊したのは、終戦から30年ほど過ぎた1848年のことです。
ウィーン体制下で、フランス革命で乱されたヨーロッパ秩序(王を頂点とする絶対王政秩序)の回復が図られましたが、すでにフランス革命戦争、ナポレオン戦争を通して、ヨーロッパ中に自由・平等・民族自決などの理念は広まっていました。
そのためウィーン体制下における自由主義・民族主義への弾圧に人々は不満を募らせ、産業革命の進展による資本家の台頭、ラテンアメリカ諸国の独立、ギリシャの独立、七月革命などがそれをさらに加熱させます。
いよいよ抑圧に対する怒りが頂点に達し、1848年の2月、フランス・パリでの二月革命で王政が崩壊し共和政が樹立されると、すぐにベルリン、ウィーン、ブダペストなどにも影響が波及、三月革命が勃発します。
ベルリンにおける三月革命
ウィーンでは学生・労働者による大規模な蜂起が発生し、ウィーン体制を主導していたメッテルヒが失脚。これを皮切りにオーストリア支配下の国々で民族独立が相次ぎ、ウィーン体制は崩壊を迎えることとなったのです。
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