1815年、ナポレオン戦争後の戦後処理として構築されたウィーン体制が崩壊したのは、終戦から30年ほど過ぎた1848年のことです。
ウィーン体制下で、フランス革命で乱されたヨーロッパ秩序(王を頂点とする絶対王政秩序)の回復が図られましたが、すでにフランス革命戦争、ナポレオン戦争を通して、ヨーロッパ中に自由・平等・民族自決などの理念は広まっていました。
そのためウィーン体制下における自由主義・民族主義への弾圧に人々は不満を募らせ、産業革命の進展による資本家の台頭、ラテンアメリカ諸国の独立、ギリシャの独立、七月革命などがそれをさらに加熱させます。
いよいよ抑圧に対する怒りが頂点に達し、1848年の2月、フランス・パリでの二月革命で王政が崩壊し共和政が樹立されると、すぐにベルリン、ウィーン、ブダペストなどにも影響が波及、三月革命が勃発します。
ベルリンにおける三月革命
ウィーンでは学生・労働者による大規模な蜂起が発生し、ウィーン体制を主導していたメッテルヒが失脚。これを皮切りにオーストリア支配下の国々で民族独立が相次ぎ、ウィーン体制は崩壊を迎えることとなったのです。
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