ヘレニズム時代のエジプト

 

ヘレニズム時代は、東方遠征によりオリエント統一を果たしたマケドニア王アレクサンドロスの死後から開始されたとされています。そしてこの時代を牽引したのはは、ディアドコイ戦争の結果残ったアンティゴノスのマケドニア王国、プトレマイオスのエジプト王国、セレウコスのシリア王国の「ヘレニズム三国」でした。

 

このうちマケドニア王国は前168年、シリア王国は前63年にローマに滅ぼされてしまいましたが、エジプトは前30年まで持ちこたえています。前332年にアレクサンドロス大王がエジプトを無血占領した際に建設した、アレクサンドリアがヘレニズム文化の中心都市として長らく繁栄を謳歌していたのです。

 

 

プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム政策

プトレマイオス朝エジプトはギリシア本土から優秀なギリシア人を集めて入植させ、ギリシアの優れた貨幣制度や税制を導入し国力を強化。ギリシア語による行政や文化の拡大を推し進めました。

 

アレクサンドリアのムセイオンには古典作家の著作が集められ、多くの学者により古典文献学の研究が進みました。この時に進んだ学術的発展と研究成果は、後のヨーロッパ世界の学問に多大な影響を与えました。

 

エジプトヘレニズム時代の終焉

ヘレニズム文化の発展において、プトレマイオス朝は最も大きな役割を果たしたといえますが、前31年にアクティウムの海戦でローマに敗れ、翌年には最後の王クレオパトラが自殺に追い込まれたことで、滅亡しています。そして最後のヘレニズム文化のけん引役が滅亡したことで、ヘレニズム時代も終焉を迎えました。

 

一方で王朝が滅んでローマ人による支配が始まってもギリシア文化が優勢を占めるのは変わらず、ローマ帝国を通じて優れたヘレニズム文化は継承され、後世のビザンティン文化の礎となりました。またエジプトでは、ローマ人による支配が終わると、コプト文化と呼ばれるエジプト人達による独自のヘレニズム文化が開花しています。