ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史年表

ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの国土

 

ボスニア・ヘルツェゴビナは東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はバルカン半島の根元に位置するボスニア地域とアドリア海に近いヘルツェゴビナ地域で構成され、気候区は北部のボスニアが大陸性気候、南部のヘルツェゴビナが地中海性気候に属しています。首都は第一次世界大戦のきっかけとなった「サライェヴォ事件」で知られるサライェヴォ。
この国ではとくに林業が発達しており、中でも松、カヤ、ブナなどの木材の生産がさかんです。また豊富な鉱山資源を背景にした鉱業もこの国の基幹産業となっています。
そんなボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は、1377年にトヴルトコ1世によって建設されたボスニア王国から始まるといえます。ボスニア王国はその後オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国による支配を経て、第一次大戦後にユーゴスラビアの構成共和国となります。さらに第二次世界大戦後のボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国時代を経て、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国として独立を宣言し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなボスニア・ヘルツェゴビナの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代ボスニア・ヘルツェゴビナ

古代のボスニア・ヘルツェゴビナは、戦略的な地理的位置と多様な文化の交差点として特徴づけられます。紀元前1世紀から2世紀にかけて、ボスニア・ヘルツェゴビナの地域はローマ帝国の一部となり、イリュリア州として統治されました。この時期、ローマの支配下で都市化とインフラ整備が進み、多くの道路、橋、公共施設が建設されました。特に、サラエヴォ近郊のアクイエ(現代のイルジャ)のような都市が発展しました。

 

ローマ時代には、ローマ文化と現地のイリュリア文化が融合し、多様な宗教と信仰が共存しました。ローマの宗教、特にミトラ教が広がり、また、キリスト教も3世紀にはこの地域に浸透し始めました。

 

西ローマ帝国の崩壊後、ボスニア・ヘルツェゴビナの地域は様々な異民族の侵攻を受けました。ゴート族、フン族、そしてスラヴ人がこの地域を通過し、定住しました。6世紀から7世紀にかけて、スラヴ人の移住が増え、彼らの文化が地域に深く根付くことになりました。

 

このように、古代のボスニア・ヘルツェゴビナは、多様な文化と影響が交差し、戦略的に重要な地域として発展してきました。ローマ時代の遺産は現在も多く残っており、この地域の歴史的背景を物語っています。

 

中世ボスニア・ヘルツェゴビナ

中世のボスニア・ヘルツェゴビナは、政治的・宗教的変動が顕著な時期でした。12世紀にボスニア・バン国が成立し、バン・コトロマニッチ家が支配しました。この時期、ボスニアは周囲の強国であるハンガリー王国とビザンツ帝国の影響を受けながらも、独自の自治を維持しました。

 

特に14世紀には、バン・ステパン・コトロマニッチの治世下で領土を拡大し、経済的に繁栄しました。ステパン・トヴルトコ1世の時代(1377年-1391年)には、ボスニア王国が正式に成立し、最盛期を迎えました。トヴルトコ1世は、ダルマチア海岸地域と一部のセルビア領を統合し、バルカン半島での影響力を強めました。

 

宗教面では、ボゴミル派と呼ばれる独自のキリスト教異端が広まりました。この宗派は、カトリック教会と東方正教会の両方から異端視されましたが、ボスニアの貴族や民衆の間で支持を得ました。

 

しかし、15世紀に入るとオスマン帝国の脅威が増し、1463年にボスニア王国はオスマン帝国に征服されました。その後、ボスニアはオスマン帝国の一部として統治され、イスラム教が広がり始めました。

 

中世のボスニア・ヘルツェゴビナは、多様な文化と宗教が交錯し、独自の政治体制を築き上げた時期であり、その遺産は現在のボスニア・ヘルツェゴビナの歴史と文化に深く影響を与えています。

 

6世紀 スラブ人の居住

6世紀に入ると、大規模なスラブ人の移動が始まり、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域にも多くのスラブ系部族が定住を開始した。この時期のスラブ人の流入は、地域の民族構成と文化の変容に大きな影響を与え、後のボスニア王国の基盤を形成することになる。スラブ人の定住は、地域の言語や文化のスラビゼーションを進め、現地のロマンス系住民との融合が進んだ。

 

1377年 ボスニア王国の成立

バルカン半島の中心部ボスニア地方を領土とする国家ボスニア王国が成立する。トヴルトコ1世(在位:1353 年 ? 1377 年)は「セルビアとボスニアの王」として戴冠を受け、彼の治世でボスニアはセルビアに代わるバルカン半島の盟主としての地位を確立した。

 

1465年 オスマン帝国による支配

コソボの戦いを皮切りにオスマン帝国のボスニア進出が始まり、1463年にボスニア王国は滅亡。1465年までにはボスニア全域がオスマン帝国の支配下に入った。

 

近世ボスニア・ヘルツェゴビナ

近世ボスニア・ヘルツェゴビナの特徴は、オスマン帝国の長期支配とその後のオーストリア=ハンガリー帝国の統治が中心です。1463年、ボスニアはオスマン帝国に征服され、オスマン帝国の一部として約400年間統治されました。この時期、イスラム教が広まり、多くのモスクや公共施設が建設されました。オスマン統治下では、多文化共存が進み、イスラム教徒、正教徒、カトリック教徒が共存する社会が形成されました。

 

近代ボスニア・ヘルツェゴビナ

近代ボスニア・ヘルツェゴビナの特徴は、多くの政治的変動と民族的緊張が見られます。1878年のベルリン会議後、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれました。これにより、西欧化と近代化が進み、インフラ整備や教育改革が行われましたが、民族間の緊張も高まりました。

 

第一次世界大戦後、1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルブ・クロアート・スロヴェーン王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となりました。この時期、民族間の対立が続き、特にセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(ムスリム)の間で緊張が高まりました。

 

第二次世界大戦中、ボスニアはナチス・ドイツとその同盟国の占領下に置かれ、多くの戦争犯罪と迫害が行われました。戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部として再編成されました。この時期、ティトーの指導の下で経済的発展が進み、民族間の対立は一時的に抑えられました。

 

しかし、1980年代末から1990年代初頭にかけてユーゴスラビアが解体する過程で、民族主義が再び台頭し、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言しました。これにより、ボスニア紛争が勃発し、多くの犠牲者と難民が生まれました。

 

近代ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は、外部の支配と内部の民族間の対立を乗り越えながら、独立国家としての道を歩んできた複雑な時期です。

 

1831年 ボスニア蜂起

ボスニアでオスマン帝国に対する反乱が勃発。いくつかの戦いでは勝利したが、翌年までに鎮圧された。

 

1875年 ヘルツェゴヴィナ蜂起

ヘルツェゴヴィナにおいてセルビア人キリスト教徒によるオスマン帝国に対する反乱が勃発。反乱は他のバルカン諸国にも波及し、「東方大危機」を引き起こし、露土戦争へと発展していった。

 

1877年 露土戦争(〜78年)

ヘルツェゴヴィナ蜂起以降、バルカン諸国で勃発していたオスマン帝国に対する反乱を、ロシアが支援したことで、露土戦争が勃発した。ロシアの勝利と終わり、ボスニアに対するオスマン帝国の影響力が低下したと同時に、ロシアやオーストリアの影響力が増大した。

 

1908年 オーストリアによる支配

オーストリアは露土戦争後のベルリン会議で、ボスニア、ヘルツェゴヴィナのオスマン帝国主権下の施政権を獲得し、1908年には両地域を完全に自国領に組み込んだ。このことはセルビア人の反オーストリア感情を刺激し、大セルビア主義や汎スラヴ主義の増長に繋がった。

 

1914年 サラエボ事件/第一次世界大戦

現首都サラエボにて、オーストリア支配に反対するセルビア人民族主義者の青年に、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されるサラエボ事件が発生。この事件の影響で、ヨーロッパ各国が連鎖的に宣戦布告し、世界規模の戦争第一次世界大戦に発展する。サラエボ事件は、ボスニア・ヘルツェゴビナの複雑な民族構成と政治状況の中で起こり、長期にわたる地域的緊張の表れとされる。

 

1918年 ユーゴスラビア王国による支配

第一次世界大戦に敗れたオーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)は崩壊し、ボスニア、ヘルツェゴヴィナは新しく成立したユーゴスラビア王国の一部となった。

 

1941年 ナチスドイツによる支配

第二次世界大戦中、ユーゴスラビアはナチスドイツを始めとする枢軸国軍に征服され、ボスニア、ヘルツェゴヴィナはドイツ傀儡のクロアチア独立国の支配下に置かれた。

 

1943年 ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の成立

パルチザンにより枢軸国勢力が一掃され、ボスニアとヘルツェゴヴィナを統合したボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国が成立する。この国家はボスニア・ヘルツェゴビナの前身となった。

 

1946年 ユーゴスラビア連邦に加盟

1946年、第二次世界大戦後の政治的再編に伴い、ボスニア・ヘルツェゴビナは新たに成立した社会主義連邦共和国ユーゴスラビアの一部となった。この統合は、ボスニア・ヘルツェゴビナに安定をもたらし、経済的および文化的発展の基盤を築いた。

 

1984年 サラエボで冬季オリンピック開催

1984年、サラエボ冬季オリンピックがボスニア・ヘルツェゴビナで開催され、国際的な注目を集めた。このイベントは、サラエボおよび全国に多大な経済的利益と国際的な名声をもたらし、地域の観光業の促進に寄与した。

 

1992年 国際連合に加盟

1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナは国際連合に正式に加盟し、国家としての独立を国際的に確認された。この加盟は、ユーゴスラビアからの独立後の国際的な立場を強化し、多国間外交関係の構築において重要なステップとなった。

 

現代ボスニア・ヘルツェゴビナ

現代のボスニア・ヘルツェゴビナ(1992年以降)の特徴は、内戦、復興、そして政治的な複雑さが際立っています。1992年の独立宣言により、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビアからの分離を試みましたが、これがきっかけとなり、1992年から1995年までボスニア内戦が勃発しました。この内戦では、多くの民族対立と深刻な人権侵害が発生し、約10万人の死者と200万人の難民が生じました。

 

1995年のデイトン合意により内戦は終結し、ボスニア・ヘルツェゴビナはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の2つの構成体からなる連邦国家として再編されました。この新しい国家体制は、複雑な政治的構造を持ち、各民族グループの利益を均衡させることを目指しています。

 

戦後の復興は国際社会の支援を受けて進められ、インフラの再建や経済の再生が図られましたが、依然として高い失業率や経済的不安定さが課題となっています。EU加盟を目指して改革が進められていますが、政治的な停滞や腐敗がその進展を妨げています。

 

現代ボスニア・ヘルツェゴビナは、多民族国家としての共存を模索しながら、戦争の傷跡を乗り越え、国際社会との統合を目指して進展しています。この過程で、人権問題の解決や経済改革が重要な課題となっています。

 

1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(〜95年)

ボスニア・ヘルツェゴヴィナがユーゴスラビアからの独立を宣言。しかしボシュニャク人による支配にクロアチア人勢力が反発し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争に発展した。紛争の中で暴行による居住地追放や虐殺といった民族浄化が繰り広げられた。

 

1995年7月 スレブレニツァの虐殺

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァにて、セルビア人のラトコ・ムラディッチ率いるスルプスカ共和国軍により、7000人以上のボシュニャク人が殺害される事件が発生。民族浄化の性格を帯びたジェノサイドは、人々の心に大きな傷を残し、後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの民族融和の大きな障害となった。

 

1995年11月 デイトン合意

ボスニア・ヘルツェゴヴィナを、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦(ボシュニャク人・クロアチア人主体)とスルプスカ共和国(セルビア人主体)の2つの構成主体による連合国家と規定するデイトン合意が締結する。

 

1996年 日本との国交樹立

1996年、ボスニア・ヘルツェゴビナは日本と正式に国交を樹立した。この外交関係の開始は、ボスニア・ヘルツェゴビナにとって重要な国際的連携の一環であり、経済的な協力、文化交流、さらには開発援助の道を開くことに貢献した。

 

2000年 ユーゴスラビア連邦共和国との国交樹立

2000年、ボスニア・ヘルツェゴビナは旧ユーゴスラビア連邦共和国(後のセルビア・モンテネグロ)と国交を樹立。この国交樹立は、1990年代のユーゴスラビア紛争の後の和平プロセスと地域安定化の一環として、重要なステップであった。これにより、かつての敵対国同士が経済や文化の交流を通じて関係を改善し、相互理解を深める基盤が築かれた。

 

2004年 欧州連合部隊「アルテア」の活動開始

ボスニアにおける治安維持を目的として、EUが編成した欧州連合部隊「アルテア」が活動を開始する。この部隊の展開は、国際連合の平和維持活動からの移行の一環であり、地域の法の支配と安全保障の向上に寄与することを目指していた。アルテア部隊の活動は、国内の民主的な構造を支え、復興と経済発展を促進するための重要な役割を担った。

 

2016年 欧州連合(EU)加盟申請

2016年、ボスニア・ヘルツェゴビナは欧州連合(EU)への正式な加盟申請を行った。この申請は、国の経済改革と政治的安定化への取り組みを加速させるきっかけとなり、EU加盟を目指すプロセスが始まった。加盟申請は国際社会に対し、ボスニア・ヘルツェゴビナがヨーロッパ統合への意志を持っていることを示し、多くの改革が推進されることになる。加盟への道のりは長く困難なものと予想されるが、これにより政治的透明性、法の支配、人権の保護などの基準が強化されることが期待されている。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動が見られます。古代には、イリュリア人やケルト人が住み、1世紀にはローマ帝国の一部となりました。ローマ時代には、都市化が進み、インフラが整備されました。

 

中世には、12世紀にボスニア・バン国が成立し、14世紀にはボスニア王国として最盛期を迎えました。しかし、15世紀にオスマン帝国に征服され、約400年間の支配が続きました。オスマン統治下では、イスラム教が広がり、多文化共存が進みました。

 

19世紀末には、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下に入り、近代化が進みましたが、民族間の緊張も高まりました。第一次世界大戦後、ユーゴスラビア王国の一部となり、第二次世界大戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国となりました。

 

1992年の独立宣言後、ボスニア内戦が勃発し、1995年のデイトン合意で終結しました。戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナは複雑な政治体制のもとで再建され、多民族国家としての共存を模索しています。EU加盟を目指しつつ、経済改革と政治的安定を追求しています。ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史は、多様な文化と影響を受けながら、独自のアイデンティティを築いてきた歩みです。