もともとヨーロッパ諸国の植民地支配の重心はアメリカ大陸やアジアにあり、アフリカ支配は沿岸地域に限られていました。16~18世紀までのアフリカは、奴隷の供給地や交易拠点として重要視されていましたが、内陸部の支配にまで踏み込むことはなかったのです。
さらにフランス革命をきっかけとした人権意識の高まりや奴隷価格の高騰で、奴隷貿易が廃止の方向に向かっていくなど、一時はヨーロッパがアフリカ支配から手を引いていく可能性まであったのです。
しかし市民革命が繰り返されていた時期(18世紀後半から19世紀前半)は、ヨーロッパの工業化が急速に進展していた産業革命の時期でもあります。今度は奴隷供給地としてではなく、工業製品の原料供給地としてアフリカの価値が上がっていったのです。
そのため19世紀後半から、工業化を遂げた西洋列強(イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガルなど)がこぞってアフリカに進出し、「アフリカ分割」と呼ばれる陣取り合戦を繰り広げるようになった、というわけです。
アフリカの国境線に直線が目立つのは、アフリカ分割の時代に、列強諸国が既存の民族分布や地形を無視して、支配地域の「線引き」をしてしまった結果。
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