東ローマ帝国は395年〜1453年まで現在のトルコとギリシャを中心に存在していた国です。395年に古代ローマ帝国が東西に分割される形で誕生した東ローマ帝国は、西ローマ帝国が476年(または480年)に滅んだ後も、約1000年もの期間存続しました。
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東ローマ帝国は、全盛期には地中海を支配し、西は現在のスペイン南部、南はアフリカ大陸の地中海沿岸までの広大な地域をおさめていました。また、広大な地域を治めたていたことから文化面でも発展し、古代ギリシアや古代ローマにキリスト教・ペルシャ・イスラムが融合した独自の文化(ビザンツ文化)が築かれました。東ローマ帝国がビザンツ帝国とも呼ばれているのはその為です。
しかし東ローマ帝国の政府および民は一度も自国を「ビザンツ帝国」と呼んだことはなく、「ローマ帝国」や「ローマ人たちの帝国」と呼んでいました(東ローマ帝国とも呼んでいませんでした)。
「ビザンツ帝国」という国号が初めて登場したのは、帝国が滅亡した後の16世紀になってからで、1544年発刊ヒエロニムス・ウルフ著『Corpus Historia e Byzantine』が「ビザンツ(Byzanz)」という用語の初出です。ヒエロニムス・ウルフは1000年の歴史を持つ東ローマ帝国を研究する上で2つの時代に分けました。
1つは4世紀の成立から、古代ローマ帝国の伝統を継承していた6世紀までの時代。もう一つは現在のギリシャやトルコが中心となった7世紀以降の時代で、このうち後者の7世紀以降の東ローマ帝国をビザンツ帝国と呼ぶようにしました。
この、時代を分けた1番の理由は帝国の性質(人種や言語など)が関係しており、6世紀まではローマ人が中心で公用語はラテン語でしたが、7世紀以降はギリシア人が中心で公用語がギリシャ語となったことが分けた理由の1つといわれています。
「ビザンツ」の語源は、東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープル(現在のトルコの首都イスタンブールの前身)の旧名・「ビュザンティオン」から来ていると言われています。ビュザンティオンは紀元前667年頃にメガラ(現在のギリシャ・アッティカ地方にある都市)から来た人たちによって建設され、メガラ人の王・ビュザンダスにちなんで名付けられたといわれています。
ビュザンティオンという旧名は東ローマ帝国では公では使われませんでしたが、16世紀にヒエロニムスによって「ビザンツ」という言葉が登場するとヨーロッパの学者の間に広がりました。そして、17世紀にはいると「ビザンツの祖」とされるフランス人作家のシャルル・ドゥ・フレスネが書籍『Historia Byzantia』を出版すると、フランス人思想家のあいだで「ビザンツ」と言う語が人気を博しました。
ただ、「ビザンツ」という言葉がヨーロッパで一般的に使われるようになったのは19世紀なってからのことです。
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