ユリアヌスとは何をした人?~背教者~

ユリアヌスとは

ユリアヌスはキリスト教優遇を廃し、伝統的ローマ宗教の復興を試みた。異教復興政策と軍事的手腕を兼ね備えたが短命な治世であったことで知られる。本ページでは、このあたりのバックグラウンドと後世への影響について詳しく掘り下げていく。

ユリアヌスとは何をした人?~背教者~

ユリアヌス


ユリアヌスの基本情報

 

本名:フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
渾名:「背教者」
誕生:331年コンスタンティノポリス
死没:363年マランガ
在位:361年 - 363年
王朝:コンスタンティヌス朝
政策:ギリシア・ローマ神話信仰の復活、キリスト教優遇の撤廃


ユリアヌスは4世紀、ローマ帝国末期の皇帝で、多神教の復権を目指し、キリスト教の公認を撤廃した「背教者」として知られる人物です。彼はまずコンスタンティウス2世に副帝として選出され、ガリア、ブリタニアの統治者として名声を高めます。そしてコンスタンティウスの死後、単独統治者となり、対外的にはゲルマン人の侵入に対処、内政では宮廷の削減など財政対策に尽力しました。


東方でギリシア・ローマの古典文学を学ぶ中で、ギリシアの神々に親しみを覚えたようで、即位後はギリシア・ローマ神の神々の神殿の再建と復興に取り組んでいます。同時に伯父コンスタンティヌス1世が行ったキリスト教優遇を撤廃し、聖職者を公職から追放、特権を廃止するなど反キリスト教の性格を隠さなかった故、教会から「背教者」と呼ばれるようになったのです。そんな彼は東方遠征で世界帝国を築いたアレクサンドロス大王に憧れ、ペルシア遠征を敢行するも失敗し、敗走中に戦死しました。


ユリアヌスが「背教者」と呼ばれる理由

ユリアヌスが「背教者」と呼ばれるのは、コンスタンティヌスのミラノ勅令(313年)によるキリスト教公認を改め、ローマ神話の神々への崇拝、つまり多神教を復活させたためです。「公認を改めた」といっても、コンスタンティヌス以前のように、キリスト教迫害を行ったわけではありません。帝国による教会や聖職者への優遇措置を打ち切る一方で、宗教寛容令で神殿の建設や神々への祭祀を復活させるなど、多神教への回帰を目指したのです。


しかし結局、その後テオドシウス帝がキリスト教を国教とし、ローマ帝国内でのキリスト教の地位を確固たるものにしたので、その流れに逆らったユリアヌスは「背教者」の烙印を押されることとなった、というわけです。


ユリアヌスは異端とされた者へ恩赦を与え、キリスト教内の教派間対立を引き起こしています。あからさまに弾圧するのではなく、内部から弱らせていくという巧妙な方法でキリスト教に対峙していました。