ローマ帝国は成立から2世紀までの200年間、パックス・ロマーナと呼ばれる平和と繁栄を享受しますが、2世紀末からは、悪政や疫病の流行、ゲルマン民族の侵入激化などにより社会が混乱し、衰退の途を歩むことになります。ここではローマ帝国が衰退したこれら3つの主因について解説しています。
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ローマ帝国の繁栄は「五賢帝」と呼ばれる、良く国を治めた5人の皇帝による功績とされますが、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウスの子コモドゥスは悪政を行い、繁栄に終止符を打ちました。結局コモドゥスは暗殺され、強制退場させられますが、その後は内乱が相次ぎ、分裂と統一を繰り返す、非常に不安定な国家となってしまいました。
五賢帝時代の末期頃から天然痘が流行し、人口が激減しています。このことで国境を守る軍団兵が不足し、後述の蛮族侵入に対応しきれなくなったのも、帝国衰退の主因の一つといわれています。
4世紀末から中央アジアのフン族の圧力に押されて、北方のゲルマン人が帝国領内に侵入してくるようになりました。ハドリアノポリスの戦い(378年)ではゲルマン一派のゴート族に敗北を喫するなど、帝国は激しく揺さぶられていきました。
激化する蛮族侵入に迅速に対応すべく、帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分担統治することとなりますが、476年、西ローマ帝国はゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに滅ぼされてしまったのです。
オドアケルに帝冠を差し出す最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス
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