スロバキアの歴史年表

スロバキアの国旗

 

スロバキアの国土

 

スロバキア(正式名称:スロバキア共和国)は 中央ヨーロッパの 東をウクライナ、西をチェコに挟まれた地域に位置する 共和制国家です。国土は 大部分はカルパティア山系の山々と南西部にドナウ川流域平野で構成され、気候区は 大部分が大陸性気候に属しています。首都は 主権国家の首都としては唯一、市域内に三国国境として知られる ブラチスラヴァ。
この国ではとくに 自動車および電機製造が発達しており、中でも乗用車の生産がさかんです。また豊富な無機鉱物資源を背景にした2 鉱業もこの国の基幹産業となっています。
そんな スロバキア共和国の歴史は、5〜6世紀頃から始まった西スラブ系のスロバキア人の定住まで遡ります。スロバキア人はしだいに勢力を広げ、9世紀には大モラビア国を形成します。10世紀になるとハンガリーに屈し、以後ハンガリー領として1000年以上過ごすことに。1918年に近縁のチェコと合同しチェコスロバキアとしてようやく独立を果たしました。その後は第二次大戦下のナチスによる支配、戦後の共産主義独裁という暗い時代を乗り切り、1993年にスロバキア共和国としてチェコから分離独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんな スロバキア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代スロバキア

古代スロバキアの地域は、紀元前から多様な文化の影響を受けていました。この地域はケルト族や後にダキア人、そしてローマ帝国の影響下にありました。ケルトの影響は紀元前5世紀から顕著で、金属加工技術が高く評価されています。ローマ帝国時代には、この地域は「ポンヌス」と呼ばれ、農業や鉱山が経済の基盤となり、多くのローマ軍が駐留していました。西ローマ帝国の崩壊により、スロバキアはさまざまなゲルマン民族の影響を受けることになります。

 

162年 マルコマンニ戦争の勃発(〜180年)

6年頃からスロバキア地域にローマ帝国が進出を開始し、先住のマルコマンニ族とクァディ族との対立から、マルコマンニ戦争に発展した。戦争を始めたマルクス・アウレリウスの病没後、その後を継いだコモドゥス帝によって和約が結ばれ、180年に戦争は終結。

 

377年 フン族の支配下に

中央アジアの遊牧騎馬民族フン族が、スロバキアを含むパンノニア全域を占領し、同地を西ヨーロッパ侵略の拠点として利用するようになった。

 

中世スロバキア

中世のスロバキアは、多くの強力な外国勢力の影響下にありました。最初は9世紀に大モラヴィア帝国の一部となり、キリスト教化が進みました。その後、ハンガリー王国の一部として統合され、スロバキア地域はハンガリーの重要な部分となりました。この時期、スロバキアは農業が中心の経済で、ゴシック様式の城や教会の建設が盛んでした。また、鉱業も重要な産業として栄え、特に銅と銀の採掘が活発であったことが知られています。

 

830年頃 モラヴィア王国の支配下に

9世紀に入り東欧においてスラブ諸民族の統合が進行。その結果モラヴィア王国が建国され、スヴァトプルクの治世 (871年-894年)で東欧最大規模の勢力圏を構築した。

 

906年 ハンガリー王国の伸長

9世紀末から徐々にハンガリー人(マジャル人)がパンノニア平原への影響力を強める。906年頃には、現スロバキア首都ブラチスラヴァが、ハンガリー王国の戦略上の重要拠点となった。さらに11世紀にはオーストリア〜ハンガリー間の商業中心地に成長している。

 

1405年 ブラチスラヴァが自由都市に

13世紀末、現スロバキア首都ブラチスラヴァが、都市法により中世都市としての基礎を固め、1405年には王立自由都市に昇格した。

 

近世スロバキア

近世のスロバキアは、ハプスブルク帝国の支配下にありました。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国との戦争が頻繁に起こり、スロバキア地域は戦場となることが多かったです。この時期、スロバキアの都市は防衛強化が進み、多くの城や要塞が建設されました。また、ハプスブルク家の政策によりカトリック教会が再び力を強め、宗教改革と反宗教改革の影響が見られました。さらに、鉱業や工業が発展し、特にハンガリー王国時代からの鉱山都市が経済の中心となりました。

 

1536年 ハプスブルク帝国の支配下に

現スロバキア首都ブラチスラヴァが、ハプスブルク朝ハンガリー王国の首都となる。以来スロバキアはオスマン帝国の西方進出(ハプスブルク帝国への侵略)に対する防波堤として利用されるようになる。

 

近代スロバキア

近代スロバキアは、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にありました。19世紀後半、民族意識の高まりとともにスロバキア人のナショナリズム運動が盛んになり、文化的・政治的な独立を目指しました。第一次世界大戦後、1918年にチェコスロバキア共和国が成立し、スロバキアはその一部となりました。第二次世界大戦中、スロバキアはナチス・ドイツの影響を受け、独立したスロバキア国が設立されましたが、戦後再びチェコスロバキアに戻りました。

 

1848年 諸国民の春

ナポレオン戦争期間、他のヨーロッパ諸国同様、スロバキアではナショナリズムが勃興したが、48年ハンガリー革命が起きると、オーストリア帝国内のハンガリーからの分離を優先し、オーストリア側(ナショナリズムを抑圧するウィーン体制を牽引していた側)に味方した。

 

1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下に

ハンガリー王国の独立(アウスグライヒ)にともない、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、スロバキアは二重帝国内のハンガリー王国の支配下に入った。

 

1918年 チェコスロバキア共和国の成立

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊したのを受け、チェコ人とスロバキア人による統一国家チェコスロバキア共和国の成立が宣言された。

 

1919年 スロバキア・ソビエト共和国の成立

ロシア革命以後、共産主義勢力が東欧各地に台頭するようになり、チェコスロバキア共和国内には、ハンガリー評議会共和国の傀儡国家スロバキア・ソビエト共和国が成立した。しかし同年中に三国協商(連合国)の介入で崩壊。

 

1938年 ミュンヘン会談

英仏独伊首脳のミュンヘン会談の中で、チェコスロバキアのドイツ文化圏ズテーテン地方のドイツ併合が一方的に決められる。

 

1939年 スロバキア共和国として独立を宣言/第二次世界大戦の勃発

ミュンヘン会談以降、ドイツの影響が増大する中、ドイツの保護国という形でスロバキアが独立を宣言した。また同年ドイツとともにポーランドに侵攻したことで、第二次世界大戦の口火を切った。

 

1945年 ソ連による占領

41年の独ソ戦開幕以来ソ連からの攻撃を受け続け、45年4月に首都ブラチスラヴァが陥落した。

 

1948年 共産主義政権の成立

戦後、ソ連の強い影響下で共産主義政権が成立し、チェコスロバキアは事実上ソ連の衛星国となった。この時期、政治的抑圧と経済統制が強化され、反対派や知識人が厳しく弾圧された。経済は計画経済に移行し、農業の集団化や重工業の優先が進められたが、経済成長は停滞し、生活水準は低下した。

 

1968年 プラハの春

共産主義一党独裁体制に対する不満が高まる中、民衆による大規模な自由化運動「プラハの春」が発生する。これを受けソ連はワルシャワ条約機構軍20万をプラハに派遣し、民主化運動を圧殺した。

 

1969年 チェコとの連邦制に移行

1969年、チェコスロバキアはチェコとスロバキアの二つの共和国から成る連邦制に移行した。この制度変更は、1968年のプラハの春に続く改革の一環として行われたが、ソ連の介入により改革は限定的なものにとどまった。それでも、連邦制はスロバキアの自治権を一定程度拡大し、民族意識の高まりに応える形となった。

 

1977年 憲章77の作成

チェコスロバキア政府の人権擁護義務を十分に果たしていないと批判した「憲章77」に人権活動家250人以上が署名した。

 

1989年 ビロード革命

チェコスロバキアにおいて再び民主化を求める抗議運動が勃発し、今度は共産主義体制に終止符を打つことに成功する。特に大きな流血もなく、穏当な体制移行が行われたことから、軽くやわらかなビロードに例えて「ビロード革命」と呼ばれる。

 

現代スロバキア

現代スロバキアは、1993年1月1日にチェコスロバキアから平和的に分離し、独立国となったことが特徴的です。その後、スロバキアは市場経済の導入と欧州連合(EU)への加盟(2004年)、そしてユーロ導入(2009年)など、ヨーロッパ統合への積極的な参加を果たしました。また、政治的には民主主義を確立し、経済成長を遂げており、工業、特に自動車産業が主要な経済セクターとなっています。スロバキアは国際的な舞台でも存在感を高め、NATOにも加盟しています。

 

1992年 スロバキア共和国憲法の採択

民主主義、法治国家、基本的人権の尊重を基本原則としたスロバキア共和国憲法が採択された。この憲法はスロバキアを独立した主権国家と規定し、議会制民主主義の下での立法、行政、司法の三権分立を確立した。また、市場経済の基盤を整備し、個人の自由と権利の保護を強調している。

 

1993年 ビロード離婚/スロバキア共和国の成立

平和裏にチェコとの分離独立(チェコスロバキアの解体)が決定し、現在に続くスロバキア共和国が成立する。ユーゴスラビアのように連邦解消にともなう武力衝突の発生も起こらず、極めて穏当に解消されたことから、軽く柔らかな布ビロードに例えて「ビロード離婚」と呼ばれる。

 

2004年 北大西洋条約機構(NATO)/欧州連合(EU)に加盟

北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、集団安全保障を基礎にした国防体制を構築する。また同年欧州連合(EU)にも加盟し、以来西ヨーロッパ諸国との政治・経済面での関係を深めていくことになる。

 

2009年 ユーロ通貨の導入

2009年、スロバキアはユーロ通貨を導入し、ユーロ圏の一員となった。これにより、経済的安定が促進され、貿易と投資の環境が改善された。ユーロ導入はまた、スロバキアの金融システムの信頼性を向上させ、欧州連合との経済的結びつきを一層強化する重要な一歩となった。

 

以上が古代から現代にかけてのスロバキア史になります。スロバキアの歴史は、多くの外部勢力の影響を受けてきました。古代にはケルト人やローマ帝国の影響下にあり、中世には大モラヴィア帝国、続いてハンガリー王国の支配を受けました。近世ではハプスブルク帝国の一部として繁栄し、19世紀にはナショナリズム運動が高まりました。20世紀にはチェコスロバキアとして独立し、1993年に平和的に分離してスロバキア共和国が成立しました。その後、EUやNATOへの加盟を通じて、現代においては経済的・政治的に安定した国家として成長を続けています。