ナポレオン戦争は、フランス革命戦争後の混乱期である1799年から1815年にかけて行なわれた、ナポレオン1世率いるフランス帝国と、それを打倒せんとするイギリスを中心とした対仏大同盟諸国の戦争です。
序盤はフランス優位ですすみ、一時は大陸ヨーロッパ全土を支配下におさめるほどでしたが、スペイン独立戦争(1808年 - 1814年)とロシア遠征(1812年)での敗北を機に劣勢に。各国でナポレオン軍が駆逐されていきました。
そしてワーテルローの戦い(1815年)で、第仏大同盟がナポレオン軍を破ったことで、フランス革命戦争も合わせれば20年以上にもわたって行われた戦争に終止符が打たれたのです。
ナポレオン戦争は最初こそ、海外からの国内干渉に対する、フランスによる防衛戦争として始まりましたが、やがて「革命理念拡大」のために、イタリア、ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、ポルトガルなど外国へ軍を送り込む、フランスによる侵略戦争に変容しました。
結果的にはナポレオンの敗北、ヨーロッパ連合の勝利で幕を閉じるのですが、一時的にでも大陸ヨーロッパ全土を支配下に置いたことで、本来の目的はかなりの部分果たされただけでなく、ナポレオン支配の中で起こったナショナリズムの台頭や封建制の崩壊といった変革は、その後のヨーロッパ史に重大な影響を与えました。
ナポレオンのヨーロッパ進撃が進むほどに、その強権性のもと各国では民族主義(ナショナリズム)が形成されました。今の時代ナショナリズムは排他性に繋がりやすいとされますが、この時代のナショナリズムといえば「既存の支配の枠組みからの解放」という側面が強く、ナポレオン戦争後に構築されたウィーン体制というのは、支配層によるナショナリズムの抑圧を目的としたものでもありました。
ナポレオンはフランス革命の理念が込められたフランスの民法をナポレオン法典(フランス民法典)としてまとめました。そして征服地で自由・平等・博愛などの精神を広め、身分制が残るヨーロッパの封建体制を崩壊させることで、近代市民社会の基礎を構築したのです。
ナポレオン戦争後、戦後のヨーロッパ秩序を話し合うべく、ヨーロッパ各国の代表によるウィーン会議が開催された。その結果ウィーン議定書が締結され、この議定書により「ウィーン体制」と呼ばれる新たなヨーロッパ秩序が現出した。
ウィーン体制とは、フランス革命以前、つまりは絶対王政時代の秩序に戻すため、ナポレオン戦争終結直後から開始されたヨーロッパの政治体制です。しかしナポレオンにより流布した民族主義・平等・自由など、従来なかった新しい価値観を払拭することはできず、この新体制への反発は年々高まっていきます。その結果、1848年ヨーロッパ各地での革命の連鎖を受け崩壊するのです。
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