保守的・復古的な国際秩序「ウィーン体制」は、オーストリア帝国の宰相メッテルヒにより主導されていたため、メッテルヒ体制とも呼ばれています。つまり1848年革命で、それまで抑えつけていた民族主義・自由主義が噴出した際、他のどの国よりも激しく動揺したのはオーストリアでした。
フランスの二月革命の影響で、翌三月にウィーンで学生による大規模なデモが発生。メッテルヒの辞任、出版の自由や言論の自由、通商の自由などが訴えられ、メッテルヒはこれを武力で鎮圧しようとしたため、暴動に発展します。
自由主義・民族主義に対して抑圧的なウィーン体制を指導していたメッテルヒ
そしてオーストリアが支配していたハンガリー、ボヘミア、イタリア、ポーランドなどでも反オーストリアの蜂起・暴動が発生し、責任を問われたメッテルヒは辞任し、ロンドンに亡命。これによりウィーン体制は崩壊しました。
メッテルヒ失脚後、皇帝フェルディナント1世が帝国議会の設置を約束するなど、自由化に向けて動きだしたかのように思われましたが、反動勢力の巻き返しにより、10月までに独立運動は鎮圧されました。
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