モルドバの国旗
モルドバの国土
モルドバ(正式名称:モルドバ共和国)は、東ヨーロッパの ルーマニア、ウクライナに囲まれた領域に位置する 共和制国家です。国土が ほぼ丘陵性の平野で占められ、両脇を河川に挟まれる内陸国で、気候区は 大部分が湿潤大陸性気候に属しています。首都は白い石灰岩の建物が立ち並ぶ「白い石の街」 として知られる キシナウ。
この国ではとくに 農業が発達しており、中でも小麦、ブドウ、トウモロコシ、タバコの生産がさかんです。またブドウ栽培を背景にしたワインの生産および輸出業もこの国の基幹産業となっています。(モルドバワインは有名)
そんな モルドバの歴史は、14世紀半ばに、現ルーマニア北東部からモルドバにかけての地域に建設されたモルドバ公国から始まるといえます。モルドバ公国は常にロシアやオスマン帝国の脅威にさらされ、16世紀以降はオスマン帝国の勢力圏に組み込まれます。19世紀には露土戦争で勝利したロシアに支配圏が移り、第一次大戦後ルーマニアに編入。第二次大戦中にソ連に占領されモルダビア・ソビエト社会主義共和国となり、ソ連崩壊直前の1991年に独立を宣言して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなモルドバの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
この地にはもともとダキア人が居住しており、古代ローマによる征服後、ローマ文化との混合によりモルドバ文化の基礎が形成されました。ローマ治世下では、ヨーロッパとアジアの境に位置する戦略的要衝として繁栄をみたが、3世紀末にローマ軍は撤退しました。その後は様々な民族の侵入を受けるようになりました。
4世紀から6世紀にかけては、ゲルマン人、フン族、アヴァール人といったさまざまな民族がこの地を通過し、一時的に支配下に置きました。これらの異民族の流入は、モルドバ地域の文化や民族構成に影響を与え、現地文化に新たな要素を加えることになりました。また、これらの過程を経て、スラブ系の文化的影響も見られるようになり、地域の歴史的背景がさらに複雑化していきました。
中世モルドバは、14世紀にモルダヴィア公国として正式に成立しました。この地域は、オスマン帝国、ポーランド、ハンガリーといった強国に囲まれた戦略的要衝として、頻繁に外圧にさらされました。特にステファン大公の時代には、オスマン帝国との戦いで知られ、ヨーロッパの防波堤としての役割を果たしました。
公国は正教会を国教として採用し、多くの修道院や教会が建設され、宗教的、文化的な中心地として発展しました。農業が主要な経済活動であり、貿易も盛んでしたが、外国の支配との関係でしばしばその自立性が脅かされました。
また、モルダヴィアはポーランドやリトアニアとも密接な関係を持ち、しばしば政治的な同盟を形成していました。このように、モルドバは文化的にも豊かで、独自の歴史を持つ地域として中世ヨーロッパの中で独特の地位を占めていました。
ルーマニア人公ヴェエヴォドがハンガリー軍を破り、モルダヴィア公国を建国。モルドバは同国の東部を構成していた。
モルダヴィア公国は新興のオスマン帝国の属国となるが、あくまで限定的な支配にとどまった。
近代モルドバは、19世紀にオスマン帝国の支配からロシア帝国に移ったことで大きな変化を経験しました。1812年のブカレスト条約により、ベッサラビア地域がロシアに割譲され、これによりモルドバはロシアの影響下に入りました。ロシア支配下で、地域のロシア化政策が進められ、多くのロシア人が移住してきました。
経済的には、農業が主体であったものの、ロシア帝国の市場への統合により、農業生産が拡大しました。また、教育とインフラの近代化が進み、鉄道の建設などが行われました。しかし、ロシア革命とその後のソビエト連邦の成立により、モルドバは再び大きな変動を迎え、1924年にはモルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国が設立されました。
近代以降、モルドバの国家としてのアイデンティティは、さまざまな外部の影響によって形成され、変化し続けた時代でした。
ロシアとオスマン帝国の露土戦争の結果、ブカレスト条約により、モルダヴィア公国東部地方が「ベッサラビア」としてロシア帝国に併合される。これにより、地域の政治的および社会的構造が大きく変化し、ロシアの影響力が強まった。
オスマン帝国の影響下で、モルダヴィア公国とワラキア公国において近代的な行政制度を導入するための憲法「レグルマーン・オルガニク」が採択される。この憲法は、両公国の自治権を一定程度認めるものであり、法的・行政的な基盤を整備する重要な一歩となった。
モルドバ公国とワラキア公国が合併し、ルーマニア連合公国が成立する。この合併は、ルーマニア民族意識の高まりを背景にして行われたものであり、地域の統一と独立に向けた重要なステップとなった。新たな国家の誕生は、後のルーマニア王国の形成につながる。
ロシア革命が勃発し、帝政ロシアが崩壊。ロシア支配地域のベッサラビアは一時、モルダヴィア民主共和国と呼ばれるロシア臨時政府の自治州となった。地域の混乱と変革の中で、自治権を持つ共和国として短期間存在し、新たな政治体制を模索する動きが見られた。
モルダヴィア民主共和国として独立宣言を行った後、ルーマニア王国との連合を結成し、事実上同王国の一部となった。この統合は、民族的および歴史的なつながりを強調し、地域の安定と発展を目指すものであった。ルーマニア王国との連合により、ベッサラビアはルーマニアの統治下に入り、政治的および経済的な統合が進められた。
第二次世界大戦が始まると、ソ連はドイツとの秘密議定書に基づき、ルーマニア領ベッサラビア地方とブコヴィナ地方を占領。この占領地に自治権が与えられた結果、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国という現モルドバ共和国の前身となる国家が建設された。
独ソ戦が始まると、モルダビア・ソビエト社会主義共和国はナチスドイツ軍により占領された。ソ連当局は撤退直前にラツェニのモルドバ人10名を殺害している。この占領期間中、ナチスの厳しい統治と迫害が行われ、多くのモルドバ人が苦難を強いられた。
ソ連軍の反攻「ヤッシー=キシニョフ攻勢」によりモルダビア・ソビエト社会主義共和国はナチスドイツから解放された。ソ連の支配が再び確立され、地域は再度ソビエト連邦の一部として統治されることとなった。戦後の復興と再建が進められ、ソ連体制下での社会主義政策が強化された。
ドイツ・日本の降伏により第二次世界大戦が終結した。戦後のモルダヴィア・ソビエトでは、ソ連の食糧徴発により引き起こされた人工飢饉により大勢の犠牲者が発生し、ルーマニアなどへの亡命者が続出した。
モルだビア民主主義共和国の建国とソ連からの分離独立を目標とする秘密結社「国民愛国戦線」が結成される。
ソ連の衛星国であった東欧諸国が次々と民主化を遂げる東欧革命が勃発する。モルダビア・ソビエト社会主義共和国にもその波が波及し、モルドバ語が公用語となるなど、民族自決への一歩が踏み出された。
1991年、ソビエト連邦の崩壊とともにモルドバは独立を宣言しました。新たな国家としての歩みは、内政と外交の両面で挑戦に満ちています。経済的には、ソビエト体制下での産業構造からの転換が進行中であり、農業が重要な役割を担っていますが、経済の不安定さが続いています。
政治的には、親ロシア派と親欧州派の間で緊張があり、この対立は国内政治だけでなく、ロシアとの関係や欧州連合との統合への道を模索する外交政策にも影響を与えています。特に、トランスニストリア地域の分離独立問題は重大な安全保障の課題となっており、この問題は国際的な関与を必要としています。
現代のモルドバは、多くの挑戦に直面しながらも、国際社会での自己の位置を確立しようと努力している国です。
現在に続く「モルドバ共和国」として独立を宣言。同年12月には独立国家共同体(CIS)に加盟し、ソ連も解体されたことで、名実ともに独立国となった。
モルドバは日本との国交を樹立し、国際連合に加盟した。これにより、国際社会への参入と国際的な協力関係の構築が進展し、外交活動が活発化した。
モルドバとトランスニストリア地域の間で紛争が勃発。戦闘は激化し、約3か月間続いたが、最終的に停戦合意が成立。戦争は多くの犠牲者と難民を生み、地域の安定に大きな影響を与えた。
独立後初の大統領選挙が行われ、共産党の党首ウラジーミル・ヴォローニが第三代大統領に就任した。ヴォローニの就任は、モルドバの政治体制と政策に大きな影響を与えた。
モルドバは世界貿易機関(WTO)に加盟し、国際貿易のルールに従うことで経済の発展を目指すこととなった。これにより、貿易の自由化と外国投資の促進が期待された。
ロシアがモルドバからのワイン輸入を禁止する措置を講じた。これはモルドバ経済に大きな打撃を与え、両国間の緊張が高まる原因となった。モルドバは新たな輸出市場の開拓に努めることとなった。
モルドバは日本に在日大使館を開設し、両国間の外交関係と経済協力の強化を図った。これにより、日本との交流が一層深まり、モルドバの国際的なプレゼンスが向上した。
東部で国境を接するウクライナにロシアが侵攻を開始。モルドバの経済や政治、安全保障にも大きな影響をもたらした。またウクライナ難民最大の受け入れ国にもなった。
古代モルドバ地域は、ダキア人が居住しており、後にローマ帝国の支配を受け、モルドバ文化の基盤が形成されました。中世にはモルダヴィア公国として独立し、オスマン帝国やポーランドの影響下にありながらも一定の自治を保持しました。19世紀にロシア帝国の一部となり、20世紀にはソビエト連邦に併合されました。1991年にソ連からの独立を果たし、現代モルドバ共和国が成立。以降、内政では政治的不安定さが続き、経済も苦戦しています。外交では、欧州連合との関係強化を目指しながら、ロシアとの関係も維持している複雑な立場にあります。トランスニストリア地域の分離独立問題は依然として大きな課題です。
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