ニコライ2世とは何をした人?〜ロシア革命を誘発〜

 

ニコライ2世の基本情報

 

本名:ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ
愛称:ニッキー
誕生:1868年サンクトペテルブルクにて
死没:1918年エカテリンブルクにて
王朝:ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝
在位:1894年 - 1917年
政策:日露戦争/十月宣言/第一次世界大戦参戦

 

ニコライ2世(1868年 - 1918年)はロマノフ朝第14代ロシア皇帝にして、反革命によりロシア革命を誘発し、帝政ロシアの幕引きを招いた皇帝としても知られます。アレクサンドル3世の長男として生まれ、父帝の死を受け26歳で即位。功績としては父の外交方針を引き継ぎ、フランスとの同盟を強化、同盟で得た資本金によりシベリア鉄道を完成させたことが挙げられるでしょう。しかし彼の政治姿勢は、保守主義者ポベドノースツェフの教育の影響により「反動」が基本で、それが後々の不幸を招きます。

 

日露戦争の敗北で帝権の信用が落ちたところで1905年、十月宣言の発布(国会の開設承認)を余儀なくされましたが、しばらくすると再び革命運動の弾圧を再開しています。専制政治に対する民衆の不満が高まっていたところで、フランスイギリスとの同盟やバルカンを巡るオーストリアとの対立から第一次世界大戦に突入し、戦争長期化による深刻な不況からロシア革命を誘発してしまうのです。その結果1917年退位を余儀なくされ、しばらくの幽閉生活を送ったのち、皇后や子供たちもろとも処刑されてしまいました。

 

ニコライ2世の最期

ニコライ2世は二月革命で退位させられ、十月革命後に一家とともにエカチェリンブルクのイパチェフ館に移送・監禁されています。ボリシェヴィキの監視下で外部との一切の接触を禁止され、家族で助け合いながら、日記を書くなどして過ごしていました。

 

ロシア内戦が激化する中、白軍がエカチェリンブルク近郊に進軍したのを受け、ソヴィエト委員は元皇帝および元皇族が白軍に奪回されるのを恐れ、ロマノフ一家全員の処刑を決定。ニコライ2世は1918年7月17日、家族や重臣もろともイパチェフ館の地下にて銃殺されたのです。

 

ニコライ2世は地下で死刑を宣告された時、耳を疑い「何といったのだ?」と聞き返したといいます。