学生服を意味する「学ラン」という言葉は、実は「オランダ」という国名に由来していることはご存じでしょうか。というのも、学ランのランは、蘭服(ランフク)のランから来ています。
江戸時代の日本は、鎖国政策下でも、西洋で唯一オランダとは国交を結んでいたことから、洋服全般のことを蘭服と呼んでいたのですね。それで「学生用の蘭服」ということで「学ラン」という言葉が生まれたのです。
このように、歴史的な繋がりの強さから、他にも調べて見ると、日本語には、ピストル、ペン、コーヒーなど、オランダ由来の身近な言葉がたくさんあります。日本の歴史をより深く知る為にも、オランダとの関係史を学ぶことは意義があることといえます。
初めてのオランダ人の出会いというと、1600年に来航したリーフデ号を思い起こす人が多いと思います。しかしもう少し遡れば、1568年に、ディルク・ヘリッツソーン・ポンプという旅行家が、ポルトガル船にのり来日をしており、厳密にはこれが日本とオランダの記録に残る初めての交流であったといえます。
先述した通り1600年に現在の大分県にあたる豊後国にオランダ船のリーフデ号が来航します。リーフデ号の航海士であったイギリス人のウィリアム・アダムズは家康の外交顧問として重用されるようになり、三浦按針として知られるようになります。
また同じくリーフデ号の航海士であったオランダ人のヤン・ヨーステンは家康に仕えました。彼は耶楊子(ヤヨス)と呼ばれ、この名は東京駅八重洲口の由来だといわれています。
1609年、日本との貿易関係を築きたいオランダ東インド会社は、マウリッツ(オラニエ公)の国書を日本に送りました。その結果、家康の許可を得て平戸にオランダ商館が開かれ、日蘭貿易が開始されるのです。
蘭学とは、オランダ語を通じて輸入された西洋の学問などを指す言葉です。日蘭貿易の活発化とともに、様々な分野の蘭学がもたらされ、シーボルトが設立した鳴滝塾をはじめとして、全国的に蘭学塾も作られるようになり、日本の学問に大きな変革と進展をもたらしたのです。
オランダの医術書を翻訳した『解体新書』は、日本の医療に大きな革新を引き起こしています。
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