イタリア統一運動の期間|真の「始まり」と「終わり」はいつか

イタリア統一運動──「リソルジメント」と呼ばれるこの動きは、ふつう19世紀の半ばに始まり、1870年のローマ併合で終わったとされます。でも、それって本当に“終わり”だったのでしょうか?実はその後も、イタリアには「まだ取り戻すべき土地がある」と考える人たちがいて、第一次世界大戦の戦場にまでその思いを持ち込んでいくんです。このページでは、イタリア統一運動の“真の始まり”と“終わり”を、一般的な通説だけでなく、少し視野を広げてたどっていきます。

 

 

イタリア統一運動の始まり

「始まり」をどこに置くかは見方によって変わります。では、何がこの運動の起点になったのでしょうか?

 

ナポレオン支配と近代意識の芽生え

1800年代初頭、ナポレオン・ボナパルトの登場が大きな転機になります。彼はイタリア各地を占領し、ナポレオン体制の下で法・行政の近代化を導入しました。その結果、民衆の間に「市民」や「国家」といった概念が広まり、「イタリア人としての自覚」が芽を出し始めたのです。

 

カルボナリとマッツィーニ

1815年のウィーン体制で旧体制が復活すると、自由主義を求める秘密結社カルボナリが各地で反乱を企てるようになります。そして1830年代に入るとジュゼッペ・マッツィーニが登場。「青年イタリア」と呼ばれる組織を結成し、共和制によるイタリア統一を主張して全国に同志を広げました。彼の登場こそが、「リソルジメントの本格的な始まり」ともいえるでしょう。

 

ミラノの5日間と武力革命の幕開け

1848年、ついにそのエネルギーが爆発します。ミラノの5日間(3月18日〜22日)では、市民がオーストリア軍に対して蜂起し、街を5日間かけて奪還。この出来事はイタリア統一運動における“象徴的な炎”となり、他の都市や国でも蜂起が連鎖的に起こっていきました。

 

イタリア統一運動の進展

武力と外交、民意と革命。さまざまな手段が組み合わさって、イタリア統一は段階的に進んでいきます。

 

カヴールと外交による北部統一

1852年にサルデーニャ王国の首相になったカミッロ・カヴールは、ナポレオン3世と手を組み第二次独立戦争(1859年)を戦います。その結果、ロンバルディア地方を獲得し、トスカーナやパルマなど中部の国々も住民投票を経てサルデーニャに併合されました。

 

ガリバルディの南部解放

1860年、ジュゼッペ・ガリバルディが千人隊を率いてシチリア島に上陸。そのまま南下して両シチリア王国を撃破し、全土を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に引き渡します。これにより、1861年にイタリア王国が成立しました。

 

統一“完成”とされる1870年のローマ併合

1866年には普墺戦争に乗じてヴェネツィアを併合し、1870年には普仏戦争の混乱に乗じてローマを制圧。ここでようやくイタリア半島のほぼ全域が統一されたとして、多くの歴史書はこの年を「統一の完成」と見なしています。

 

イタリア統一運動の“終わり”

でも、1870年で終わりかというと、じつはそうではないんです。まだ“取り戻すべき土地”が残っているという思いが、次の世代へと引き継がれていきます。

 

未回収のイタリア(イタリア・イルレデンテ)

ローマ併合のあとも、南チロルトリエステなど、まだオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあるイタリア語圏の地域が残っていました。これらを“未回収のイタリア”と呼び、ナショナリズムの火はくすぶり続けます。

 

第一次世界大戦への参戦

そんな中、1915年にイタリアは三国同盟を離脱して協商国側で第一次世界大戦に参戦。目的の一つは、未回収のイタリア領を手に入れることでした。国家のために命をかける「国民戦争」の時代に突入していきます。

 

ヴィットリオ・ヴェネトの戦いと統一の完結

1918年、オーストリアとのヴィットリオ・ヴェネトの戦いでイタリア軍が大勝。これによりオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、南チロル・トリエステ・イストリア半島などがイタリア領に編入されます。この勝利こそが、イタリア統一運動の“真の終わり”を象徴しているといえるでしょう。

 

第一次世界大戦・イタリア戦線における、オーストリアに対するイタリアの勝利を決定づけたヴィットリオ・ヴェネトの戦いの後、トレントに滞在するイタリア騎兵隊

 

一般的には1870年のローマ併合がゴールとされるけど、実際には1918年のヴィットリオ・ヴェネトの戦いこそが、イタリア統一運動の本当の終幕だったといえます。そこには「土地の回収」にかけた人々の執念と、100年近くにわたる歴史の重みが込められていたんです。