
コソボの国旗
コソボの国土
コソボ(正式名称:コソボ共和国)は、東ヨーロッパのバルカン半島中部、セルビア・北マケドニア・アルバニア・モンテネグロなどに囲まれた領域に位置する共和制国家です。国土は南西および南東の山岳地帯と中部の平原で構成され、気候区は大陸性気候に属しています。首都は中世セルビア王国の首都で、その時代の歴史的遺産を多く抱えることで知られるプリシュティナ。
この国ではとくに鉱業が発達しており、中でも鉛・銀・錫・亜鉛・ニッケル・褐炭などの生産がさかんです。またベーリ川・ドリム川流域の農産地を背景にした農業もこの国の基幹産業となっています。
コソボは長らく東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の支配下にありましたが、12世紀にセルビア王国に服属しその中心地として繁栄しました。14世紀末以降はオスマン帝国に支配され、以後500年以上をオスマン領として過ごしますが、第一次バルカン戦争(1912〜1913年)の結果、再びセルビアに編入されることになりました。その後ユーゴスラビア王国時代、社会主義時代の開発遅れからセルビアとの溝が深まっていき、20世紀末にはアルバニア系住民が独立宣言を出すにいたります。セルビアはこれを認めずコソボ紛争(1998年〜1999年)に発展しますが、国連の介入もあり2008年にコソボ共和国として独立宣言。アメリカやEU諸国、日本などセルビア以外のほとんどの国がこれを承認して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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古代においてバルカン半島西部に存在した国家イリュリア王国の支配下に入る。このころのコソボにはトラキア人の一派が居住していた。
イリュリア王国が共和政ローマにより征服され、コソボもその支配下に入る。
ローマ帝国ドミティアヌス帝の治世でモエシア・スペリオル属州(上モエシアとも)の一部となる。
ローマ帝国が東西に分裂し、コソボは東ローマ帝国の支配下に入った。
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プレシアン・ハーンにより征服され、第一次ブルガリア帝国の支配下に入った。以後ブルガリア帝国による150年にもおよぶ支配の中で、キリスト教が浸透し、聖堂や修道院が建てられるようになる。
バシレイオス2世(在位:976年 - 1025年)以来、コソボは再び東ローマの統治下に置かれていたが、ブルガリア皇帝の血を引くペタル・デリャンがベオグラードで反乱を起こす。この反乱はすぐに鎮圧されたが、わずかな期間コソボは解放されていた。
セルビア公国とオスマン帝国がコソボで会戦。オスマン帝国の勝利に終わった。
再びコソボを舞台とした戦争が勃発し、ハンガリーとオスマン帝国が会戦。再びオスマン帝国の勝利と終わった。
オスマン帝国がセルビアを征服。コソボもセルビアの一部として同帝国からの支配を受けるようになる。
オスマン帝国と神聖同盟の間で大トルコ戦争が勃発し、戦火に巻き込まれたコソボは大きな被害に見舞われた。
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露土戦争に乗じてセルビア軍がコソボ北部に侵攻。これを受け大勢のコソボ在住アルバニア人が亡命を余儀なくされた。
オスマン帝国支配下のコソボ州プリズレンにて、アルバニア人の権利保護と拡大、自治権獲得などを目的としたプリズレン連盟が結成される。
帝国内で権利拡大が進展しないことに不満を持ったアルバニア人による暴動が勃発。最終的にはオスマン帝国軍により鎮圧された。
バルカン戦争でバルカン同盟がオスマン帝国に勝利した結果、コソボの大部分はセルビア王国の支配下に入った。
第一次世界大戦が始まると、コソボはブルガリア、オーストリア=ハンガリー帝国など中央同盟国軍に占領された。
セルビアの反攻によりコソボから中央同盟国勢力が排除される。この際アルバニア人に対して虐殺が行われた。戦後はセルビア人、クロアチア人、スロベニア人による連合国家ユーゴスラビア王国に編入される。
第二次世界大戦中、ユーゴスラビアは枢軸国勢力に征服され、コソボは枢軸国イタリアの保護領となっていたアルバニア王国へと編入される。
ユーゴスラビア・パルチザンにより、コソボの枢軸国勢力が一掃され、コソボはユーゴスラビアのセルビア人民共和国に編入された。
セルビア内部にアルバニア人が多数を占める自治区コソボ・メトヒヤ自治州が設立される。同時に史上初めてコソボの境界線が設けられた。
憲法改正によりコソボの自治権が大幅に拡大。独自の大統領や首相、州議会を持つなど、他のユーゴスラビア自治州とほぼ同等の権利を持つ「コソボ社会主義自治州」に昇格した。
アルバニア人の学生が、コソボをユーゴスラビア構成共和国へ昇格させることを求めて抗議活動を行い、やがて暴動に発展した。最終的には鎮圧されたが、民族間の対立を高める結果となった。
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アルバニア人により創設された独自の議会により、ユーゴスラビアからの離脱、コソボ共和国の建国が宣言された。住民投票では賛成多数であったものの、ユーゴスラビアや外国政府からの国家承認は受けられなかった。
独立運動を弾圧しようとするセルビア政府に対し、アルバニア人はコソボ解放軍を結成してゲリラ闘争を開始した。
セルビア支配に対するアルバニア人のゲリラ闘争、それに対するセルビア軍の報復が激化していき、コソボ紛争に発展する。
NATOによるユーゴスラビア空爆が始まる。当初はコソボ域内に限定した攻撃だったが、やがてユーゴスラビア全土に攻撃目標が拡大され、大勢の犠牲者が出た。
コソボ紛争終結後、コソボは一時的に国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下に置かれた。その間NATO主導のコソボ治安維持部隊が駐留し、避難していたアルバニア人が帰還。逆にセルビア人は追放された。
コソボ内にて少数派となっていたセルビア人に対し、アルバニア人による大規模な排除運動が勃興する。銃撃事件に端を発する報復合戦により、セルビア人、アルバニア人双方で大勢の被害が出た。
コソボ議会が独立を決議し、セルビアからの独立を宣言した。
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