
ポーランドの国旗
ポーランドの国土
ポーランド(正式名称:ポーランド共和国)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家です。国土はバルト海に面し、気候区は温帯気候、また東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となります。首都は14世紀ごろに建設された旧市街などの数々の歴史地区の名所として知られるワルシャワ。
第二次世界大戦後、製鉄業や自動車産業の工場を集積しました。民主化後、今も操業しているのは製鉄所や自動車工場などです。またポーランドは鉱物資源が豊富で、石炭の生産量は世界トップです。
ポーランドはかつては東ヨーロッパ屈指の強国として存在感を示していましたが、近代に入りロシア、プロイセン、オーストリア、オスマン帝国などの台頭で衰退していきます。18世紀には周囲の強国に国土を奪いつくされ、20世紀にやっと独立を回復したかと思えばナチスドイツ・ソ連による侵攻で再び土地と独立を奪われるなど、長く悲惨な時代を過ごしました。戦後は社会主義勢力による支配が続きましたが、冷戦時代末期に民主化運動を起こしポーランド共和国として今度こそ復活。現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなポーランドの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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古代ポーランドでは、球状アンフォラ文化(前3400年-前2800年頃)、ウーニェチツェ文化(前2400年頃-前1600年頃 )、トシュチニェツ文化(前1700年-前1200年)などが栄えていた。
現在のポーランド地域には、10世紀頃まで、西スラブ人によるいくつかの勢力が分立していました。そんな中、西スラブ族のミェシュコ1世が諸勢力を統合し、ポーランド公国を成立させ、これが現ポーランド国家の起源となったのです。11世紀になるとミェシュコの子ボレスワフ1世(別名:勇敢王)の治世のもと、ウクライナ、ボヘミア王国西部、ポメラニア公国にまで勢力が拡大し、神聖ローマ帝国と対等な地位を得るにまで成長します。さらにボレスワフ1世が国王として内外から承認されたことで、ポーランド王国が成立しました。
8世紀初めにポーランド南部を中心に、ヴィシラン族などによる小規模な集落が形成される。
チェコを中心に勃興した国家モラヴィア王国の支配下に入る。
10世紀初頭にモラヴィア王国が崩壊し、ポーランドはチェコ人国家の一部をなすようになる。また現ポーランド中西部であるヴィエルコポルスカに、ポラン族(後にポーランド国家を創設)とゴプラン族が居住するようになった。
ポラン族の首長ミェシュコ1世(在位:963年〜992年)が、ポーランド地域の諸部族を統合し、ピャスト朝ポーランド公国を創始。現在のポーランドの基礎となる。
ミェシュコ1世が神聖ローマ皇帝より公の称号を授与。またミェシュコがキリスト教カトリックに改宗したことで、ポーランドがキリスト教世界の一員に。
ポーランド公国の創始者ミシュコ1世が死去し、息子のボレスワフ1世がポーランド公に即位する。
ポーランド最初の大司教区(グニェズノ大司教区)が創設される。
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ミェシュコ1世の後継者ボレスワフ1世が、死の直前に王位を認められ、ポーランド公国はポーランド王国に昇格した。
ボレスワフ3世(在位1102年 - 1138年)が、長らく国内紛争でバラバラだった国家の統一に成功する。
ナクロの戦いで勝利し、ドイツ北東部からポーランド北西部にかけて広がるポメラニアを支配下におく。
ボレスワフ3世が死に際に政令(遺言状)を出し、ポーランド領土は息子達に分割統治されることになった。しかしまもなく土地の権利をめぐり息子たちは争いはじめ、以後ポーランドは2世紀にわたり分割と統合を繰り返す不安定な時代に突入することとなる
ポーランド君主コンラト1世 (マゾフシェ公)が、異教徒プルーセン人征伐のため、ドイツ騎士団に接近。力を貸してもらう代わりにプロイセンの領有権を与えた。
ユダヤ人の権利を保護するための法令が、ポーランド中央部の都市カリシュで発布された。この法令で、ポーランドに多くのユダヤ人が移住してくることとなった。
短身王ヴワディスワフ1世(在位1320年 - 1333年)がポーランド王に即位。彼の治世により、長らく分裂状態にあったポーランドは再統合された
カジミェシュ3世が死去し、ピャスト朝が断絶する。後継にはアンジュー朝のハンガリー王ラヨシュ1世が、ポーランド王ルドヴィクとして即位した。
ルドヴィクの死後、王位を継承したヤドヴィガが、リトアニア大公ヤギェウォと結婚したことで、ヤギェウォ朝が創始された。ヤギェウォ朝はポーランド、リトアニア、ボヘミア、ハンガリーを束ね、連合王国を形成し、のちのポーランド・リトアニア共和国の基礎となった。
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16世紀になるとボヘミアやリトアニアを統合し、ポーランド・リトアニア共和国を成立させ、黒海沿岸にまで勢力を広げるヨーロッパ屈指の強国に成長を遂げます。しかし17世紀になると、ロシア、プロイセン、オーストリアなど新興勢力に圧され、その国力に陰りがみられるように。そして18世紀末にはこれらの国々に完全に力で逆転され、さらには国土を奪い尽くされ国そのものが消滅してしまう悲劇に見舞われます。
勢力拡大を目論むドイツ騎士団のポーランド侵攻に端を発し、ポーランド王国・リトアニア大公国の連合と、ドイツ騎士団による戦争が開始された。
ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争中の、グルンヴァルドの戦い(ドイツ語では「タンネンベルクの戦い 」)で、ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を決定的に撃破した。
※グルンヴァルドの戦いはヨーロッパ史全体を通しても最大級の戦いとなりました。またポーランドの歴史認識では、ドイツの東進を食い止めたということで、戦史上特に重要な勝利であったと位置付けられています。
ポーランド・トルン出身のコペルニクスが「地動説」を発表。これまでの天文学の常識を覆した。
ヨーロッパで宗教改革が起こり、ポーランドにもプロテスタントが流入
ルブリン合同によりポーランドとリトアニアが統合され、ポーランド・リトアニア共和国が成立。強大化するロシアに対抗するのが主な目的だった
ピャスト朝断絶後、200年近くポーランドを統治してきたヤギェウォ朝が断絶。以後ポーランドでは選挙王制が続いたが、ロシアやプロイセンの内政干渉とそれに伴う政治的混乱により、国は衰退していった。
現ポーランドの首都ワルシャワが、ジグムント3世の治世下で、ポーランド・リトアニア共和国の首都となった。
スウェーデンによるポーランド・リトアニア共和国侵攻に端を発し、大洪水時代が始まる。
大洪水時代には、フメリニツキーの乱、ロシア・ポーランド戦争、北方戦争など、大きな戦乱が続きました。1660年まで続いたこの「大洪水」はポーランド・リトアニア共和国の国力を大きく削りとり、ヨーロッパにおける大国としての地位を消失させる原因になりました。
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ポーランドの利権をめぐり争っていた三国(プロイセン、オーストリア、ロシア)が、妥協策としてポーランドの国境に隣接する地域を分け合う「第一次分割」が行われる。
ポーランド・リトアニア共和国にて、ヨーロッパで最初の近代的憲法が採択される。世界に先駆けて立憲君主制、三権分立、参政権など、民主的な原則が盛り込まれている。しかしこの憲法を「絶対君主制への脅威」とみたロシア女帝エカチェリーナ2世の策動により、わずか1年で廃止に追い込まれた。
ロシアは、5月3日憲法の制定をはじめとするポーランド・リトアニア共和国における数々の改革を「ジャコビニズム」と断じ、ポーランド保守派の手引きで同国に侵攻を開始。ポーランド・ロシア戦争が勃発した。
ロシア・ポーランド戦争の結果、第二次ポーランド分割が決定。ロシアとプロイセンにより、第一次分割の後残った約50万km2の領土うち、約30万q2を奪われた。
改革派のコシチュシュコ主導で、第二次分割のあと残ったポーランドの領土とプロイセンに奪われた元ポーランド領にて、武装蜂起が発生。最終的に鎮圧された。
第三次ポーランド分割を実施した3ヵ国の君主。左からプロイセン王ヴィルヘルム2世/ロシア女帝エカチェリーナ2世/神聖ローマ皇帝フランツ2世
コシチュシュコの蜂起ののち、第三次ポーランド分割協定が結ばれ、残ったポーランドの国土はロシア、プロイセン、オーストリアに奪いつくされ、ポーランドという国は地図上から消滅した。
分割に関わった国々は、ポーランド復活の芽を完全に断つために、「ポーランド」という呼び名すら、地図や公文書、果ては辞典などからも消し去るなど徹底した抑圧政策を実行しました。その尊厳をことごとく棄損されたポーランド人は怒り、祖国亡きあとも宗主国への蜂起を続けたのです。
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20世紀になると、ロシア革命にともなうロシア帝国崩壊、第一次世界大戦敗戦にともなうオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、およそ120年分ぶりに自治独立を遂げます。しかしその喜びもつかの間、第二次世界大戦直前に、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約秘密議定書に基づきポーランドに侵攻。国土はまたも他国に分割占領されてしまいました。第二次大戦の最中、独ソ戦が開始すると、全土をナチス・ドイツに占領され、ユダヤ人を含む約600万人のポーランド人が殺害される悲劇も発生しています。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトによる、ヨーロッパ征服戦争ナポレオン戦争が始められる。
ナポレオン・ボナパルトがポーランド首都ワルシャワを占領し、フランス帝国の衛星国としてワルシャワ公国を成立させる。
この建国は、18世紀末のポーランド分割で祖国を消し去られ、フランスに逃れていたポーランド人により支持されていました。ナポレオンなら自分たちの主権を回復してくれる!と期待を寄せていたのです。しかし結局はナポレオンの失脚で夢物語に終わりました。
ナポレオン戦争後のウィーン会議で、ヨーロッパの領土再編が話し合われ、ポーランドの支配権は元の三か国に戻ることになった。そのうちロシアが支配する領域にはロシア衛星国としてポーランド立憲王国が成立した。
フランスの7月革命に刺激され、ポーランドでも独立の気運が高まり、ロシア帝国に対する武装蜂起が発生。最終的に鎮圧された。
ロシア帝国の支配からの解放を求めて、ポーランドの貴族階級(シュラフタ)を中心とした民族主義者・自由主義者が反乱を起こす。ロシア帝国軍への徴兵に対する抗議運動から始まり、史上最大規模の蜂起となったが、最終的には鎮圧され、ロシアは余計に抑圧姿勢を強めていった。
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第一次大戦中の1917年にロシア革命が起こりロシア帝政が倒れると、ポーランドはその機に乗じて独立を宣言。ポーランド共和国(第二共和国)が成立した。
ポーランドが18世紀のポーランド分割以前の領土を取り戻そうとロシア・ソビエト領に侵攻を開始。ポーランド・ソビエト戦争が開始された。結果ポーランド軍が勝利し、ベラルーシおよびウクライナの西部を手に入れた
西のドイツでヒトラーが政権をとり、軍備増強政策がポーランドの脅威になる
秘密議定書による黙認のもと、ナチス・ドイツとソ連がポーランドに侵攻。国土の西半分はドイツに、東半分をソ連に奪い取られ、ポーランド第二共和国は崩壊した。ポーランド共和国政府を継承した亡命政府がパリにつくられ、40年にアンジェに移転。フランス降伏後はロンドンに移転した。
ドイツのポーランド侵攻を受け英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が開始されました
同年独ソ戦が開始されたことで、利害の一致からポーランド亡命政府とソ連が国交を樹立する。
ドイツからの解放を求め、亡命政府のポーランド国内軍とワルシャワ市民が蜂起を起こす。激しい市街戦となりドイツ軍を苦しめるも、最終的には約20万人が犠牲になり鎮圧された。
ドイツ軍が撤退し、ポーランドはソ連軍の占領下に置かれた。ポツダム会談の決定で、ポーランド領のうち、東部のウクライナ、ベラルーシ西部はソ連に割譲された
ナチス降伏後はソ連に再占領され、ソ連衛星国の社会主義国家ポーランド人民共和国による支配が始まりました。しかし、社会主義体制の行き詰まりの中、市民の経済不振への不満は高まり、冷戦末期には共産党の支配を受けない自主管理労組「連帯」が誕生します。政府は押さえ込みを図るものの、民主化への流れを阻むことはできず、「連帯」主導の連立政権が発足。ここに現在に続くポーランド共和国が成立したのです。ポーランドは東ヨーロッパでも最も早い体制転換に成功した国になりました。
ソ連の衛星国として共産主義政権が支配するポーランド人民共和国が成立
フルシチョフによるスターリン批判の直後、ポーランド西部の都市ポズナンで、大衆暴動が発生。労働環境改善を求めるデモを、強硬に鎮圧しようとしたことで起こった。100名を超える死傷者が出た。
80年代ソ連のペレストロイカにともなう民主化運動を経て、限定的自由選挙の結果、非共産主義系の内閣が誕生。自由主義体制に移行し、国名も「ポーランド共和国」に変更。ここに現在に続く第三共和国が成立した。
ポーランドは、2009年ギリシャ危機に端を発する経済危機の連鎖(欧州経済危機)の中でも唯一、プラスの経済成長を達成した。
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