ルクセンブルクの国旗
ルクセンブルクの国土
ルクセンブルク(正式名称:ルクセンブルク大公国)は、西ヨーロッパの 北と西をベルギー、南をフランス、東をドイツに囲まれた地域に位置する 立憲君主制国家です。国土はベルギーから続くアルデンヌ高原とフランスから続くロレーヌ台地で構成され、気候区は 西岸海洋性気候に属しています。首都は 「北のジブラルタル」と呼ばれ、世界遺産の要塞都市として知られる ルクセンブルク市。
この国ではとくに 鉄鋼業が発達しており、中でも鉄鋼・金属の生産がさかんです。また高度に発達した工業と豊かな自然が共存していることを背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんな ルクセンブルクの歴史は10世紀頃、ルクセンブルク家の創始者ジークフリートが、現在の首都ルクセンブルク市に要塞を建設したところから始まるといえます。11世紀にはルクセンブルク伯爵の称号を獲得。14世紀から15世紀にかけてはルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝やボヘミア王を出すなど黄金期を迎えました。15世紀半ばに衰退が始まり、フランス、オーストリア、プロイセンといった外国からの支配を受けるようになりますが、19世紀にはウィーン会議の結果としてオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国に昇格しました。その後ベルギー独立運動と連動してオランダからの離脱を宣言。19世紀後半にロンドン会議により永世中立国として独立が承認され現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなルクセンブルクの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代ルクセンブルク一帯にはもともとゲルマン民族の血を引くケルト人一派トレヴィール人らが暮らしていたとされますが、前50年頃ユリウス・カエサルによるガリア征服戦争の結果、ローマ化が進行していきました。
ローマ支配の確立後、この地域は重要な交通の要所として発展。ルクセンブルク地域はローマ帝国の属州ゲルマニアの一部となり、特にトリーア(Trier)との関連性が深まりました。その後、ローマ軍の城壁都市としての機能も備え、ローマのインフラ、特に道路網が整備されることで、地域の経済活動が活性化しました。
ローマ文化の影響を受けつつも、トレヴィール人らは独自の文化を保ち続け、徐々にゲルマン化していったのです。
中世ルクセンブルクは、多くのフランク王国の支配を経て形成されました。480年頃、フランク王国による支配が始まり、843年のヴェルダン条約後は中フランク王国、855年の分裂でロタリンギア王国、870年のメルセン条約で西フランク王国、880年のリブモント条約で東フランク王国の支配を受けました。
その後、963年にシーゲフロイド伯がルクセンブルク城を築城。戦略的な要塞として知られ、ルクセンブルクは交易の中心地として栄えました。中世を通じて、ルクセンブルクはヨーロッパの大国間で政治的な野望の対象とされました。14世紀にはルクセンブルク家から神聖ローマ帝国の皇帝が輩出され、この時期にはルクセンブルクは大きな影響力を持っていました。しかし、領土争いや継承問題が絶えず、政治的には不安定だったこともあり、次第に周辺国の影響を強く受けるようになります。
西ローマ帝国崩壊後、ゲルマン民族一派のフランク人がガリア一帯を征服し、ルクセンブルクもその支配下に入る。
ヴェルダン条約でフランク王国の領土が西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国の3つに分裂。ルクセンブルクは中フランク王国の支配下に入った。
中フランク王国がさらに3つに分裂し、ルクセンブルクはロタリンギア王国の支配下に入る。
メルセン条約によってロタリンギア王国の領土は分割され、ルクセンブルク地域は西フランク王国の支配下に入った。
リブモント条約によって西フランクに併合された地域は東フランク王国に割譲されることとなり、ルクセンブルクは東フランク王国の支配下に入った。
アルデンヌ家のジークフロイトが土地交換の契約を交わしたことで現首都ルクセンブルク市を獲得。獲得地域に城塞を築き、ルクセンブルクの原型を形成した。
ルクセンブルク家のコンラッド1世が「ルクセンブルク伯爵」の称号を得る。この時期からルクセンブルク家はヨーロッパの貴族としての地位を確立し始める。
カール4世(神聖ローマ皇帝)がルクセンブルク伯領を公領に昇格させ、ルクセンブルクはより大きな自治権と影響力を持つようになる。
ブルゴーニュ公国がルクセンブルク公領を獲得する。この統治により、ルクセンブルクはブルゴーニュ公国の重要な地域となり、経済的および軍事的な要所として発展していく。
近世ルクセンブルクは、領土争いの舞台となりました。16世紀にスペインとの間で八十年戦争が勃発すると、ルクセンブルクも戦場となった。スペイン支配下の時代が続いたが、1683年にフランス王ルイ14世の軍が侵攻し、ルクセンブルク城を占領しました。しかし、1697年のレイスウェイク条約によってスペインに返還されることとなります。その後、1713年のユトレヒト条約でオーストリアの支配下に入り、18世紀を通じてハプスブルク家の一部として維持されました。この時代、ルクセンブルクは外国勢力による領土の奪い合いの中で繰り返し支配者が変わる不安定な時期を経験しました。
神聖ローマ帝国で宗教対立に端を発する三十年戦争が勃発すると、その戦場となったルクセンブルクは、ペスト流行の追い打ちもあり甚大な被害を被った。
三十年戦争に始まったフランスとスペインの戦闘は、三十年戦争終結後も続いたが、ピレネー条約によりようやく講和した。この条約の結果、ルクセンブルクの一部がフランス領となった。
フランス王ルイ14世がルクセンブルクの残りの地域を統合するべく再統合戦争を起こした。フランスが勝利し、ルクセンブルクの支配を固めた。
大同盟戦争の講和条約レイスウェイク条約が締結され、ルクセンブルクは再びスペイン・ハプスブルク家の支配下に戻った。この条約により、ルクセンブルクは短期間のフランス支配を終え、スペインの影響下で安定を取り戻した。
スペイン・ハプスブルク家が断絶し、スペイン王位継承権を巡り諸国が対立したことで、スペイン継承戦争が勃発(1701年)。この戦争によりルクセンブルクを含めたネーデルラント(低地地方)の支配権は、オーストリア・ハプスブルク家が獲得した。
オーストリアへの宣戦布告に端を発するフランス革命戦争の中、フランス国民議会はオーストリア領ネーデルラントを自国に併合することを決定。1804年にはナポレオンが皇帝に即位したことで、ルクセンブルクはフランス帝国の一部となった。
近代ルクセンブルクは独立と中立の道を歩みました。1815年のウィーン会議でルクセンブルク大公国が成立し、オランダ王が大公となりましたが、同時にドイツ連邦の一員として独立を宣言しました。1867年のロンドン条約で永世中立国として国際的に認められました。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、鉄鋼産業が経済の中心となり、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツによる占領を経験しました。戦後、ルクセンブルクは欧州統合の動きに積極的に参加し、ヨーロッパ連合の創設メンバーとなりました。
ナポレオン失脚後、ウィーン会議の決定により公国から大公国に昇格し、オランダとの同君連合を結成した。れにより、ルクセンブルクはオランダ国王を大公とする形で、国際的な地位を確立した。同時に、ルクセンブルクはドイツ連邦の一部としても位置づけられ、その戦略的重要性が増した。
ロンドン条約によりルクセンブルク大公国は独立を果たし、現ルクセンブルクの国境が画定した。この条約でルクセンブルクはベルギーと領土を分割され、ベルギー領ルクセンブルクが形成された。一方で、残された領域はルクセンブルク大公国として国際的に認知され、その主権が保証された。
フランス二月革命の影響(1848年革命)がルクセンブルクにも波及し、議会制の導入を明記した憲法を制定した。この憲法は、自由主義的な価値観と政治的安定を求める動きの一環として、ルクセンブルクの政治制度の近代化を促進した。
ルクセンブルクを巡りプロイセンとフランスの対立が高まる中、イギリスやロシアの立ち合いのもと、ロンドン会議が開催され、ルクセンブルクは非武装永世中立国とされることが決定した。
プロイセン宰相ビスマルクのもとドイツが統一され、ドイツ帝国が成立した。以来ルクセンブルクではドイツの強い影響のもと急速に工業化が進んでいった。鉄道や鉱業が発展し、経済的な成長が促進された。
オランダ王ウィレム3世の死後、女性であるウィルヘルミナがオランダ女王に即位したため、サリカ法に基づきルクセンブルク大公国は同君連合を解消し、ナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフがルクセンブルク大公として即位した。これにより、ルクセンブルクはオランダから独立した君主制国家としての地位を確立した。
サラエボ事件に端を発し第一次世界大戦が勃発。ドイツ軍はフランス侵攻の一環として、中立国ルクセンブルクに侵入した。戦後は敗戦国ドイツとは壁が出来る一方で、フランスへの経済依存度が増していった。
第一次世界大戦後、ルクセンブルクは国際連盟に参加し、国際社会における平和と安全の維持に貢献することを目指した。この参加により、ルクセンブルクの外交的な地位は強化され、国際協力の重要性が示された。また、国際連盟への参加はルクセンブルクの中立政策をさらに強固なものとし、国際的な平和維持活動において重要な役割を果たす意図があった。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発(1939年)。翌年、中立国ルクセンブルクは再びドイツ軍に占領され、大公はポルトガルに亡命した。
連合国軍がルクセンブルクに進軍し、枢軸国勢力を一掃。これにより、ナチス・ドイツの占領から解放されたルクセンブルクは、再び独立と自由を取り戻した。
ドイツ軍の反撃が開始され、アルデンヌ高地を舞台にドイツ軍と連合国軍の戦闘バルジの戦いが勃発。この戦いでルクセンブルク市街の三分の一が破壊された。
戦後は1867年ロンドン条約以来とっていた中立政策を放棄し、国連憲章に署名、国際連合に加盟した。
ベルギー、オランダとの間で関税同盟「ベネルクス関税同盟」を結成し、経済協力と統合を強化した。また、同年にはブリュッセル条約にも参加し、西ヨーロッパ諸国との政治的・軍事的協力を進めることで、地域の安定と安全保障に貢献した。
ベネルクス関税同盟の特徴と目的
戦後、中立政策を放棄したベルギーは北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、集団安全保障を基礎とした国防体制を構築した。
ベネルクス経済同盟条約が締結され、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの三国が対等な立場として活発な経済交流を行うようになった。
欧州連合の元になったヨーロッパ共同体(EC)の原加盟国となる。ルクセンブルク含め、西ヨーロッパ6か国の統合を目的に結成され、やがて加盟国が拡大していき欧州連合(EU)へと進化した。
1994年、ルクセンブルク市街の古い部分がユネスコの世界遺産に登録された。この地域はその卓越した要塞の遺跡や古い市街地が評価され、ヨーロッパの要塞都市の発展史を物語る重要な証拠とされている。要塞は、その歴史的な戦略的重要性から「北のジブラルタル」とも称され、多くの異なる建築様式が見られることが特徴。この世界遺産登録は、ルクセンブルク市の文化的・歴史的価値を国際的に認められたことを意味し、観光促進にも寄与した。
古代から現代にかけてのルクセンブルクの歴史は、多様な支配と文化的影響を受けた変遷の連続です。ゲルマン民族の一部であるケルト系トレヴィール人が支配していた地域は、前50年にローマ帝国に征服され、「ガリア・ベルギカ」となりました。西ローマ帝国の崩壊後、フランク王国やさまざまな地域勢力による支配が続きます。963年にはルクセンブルク城が建設され、ルクセンブルク伯領が形成されました。中世を通じて地域はブルゴーニュ公国やハプスブルク家の影響下にあり、近世にはスペインとオーストリアの支配を経て、1815年のウィーン会議で独立国として確立しました。20世紀には二次世界大戦の影響を受け、戦後は欧州統合の一翼を担う国家として発展し、現在に至ります。
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