
ギリシャの国旗
ギリシャの国土
ギリシャ(正式名称:ギリシャ共和国)は、南ヨーロッパの トルコ、アルバニア、ブルガリア、北マケドニア共和国に囲まれたバルカン半島の南端に位置する 共和 制国家です。国土は 中央ギリシャ、エーゲ海の島々、ペロポネソス半島およびピンドス山脈で構成され、気候区は 大部分が地中海性気候に属しています。首都は 世界的有名な古代都市のひとつであり、民主主義の発祥地として知られる アテネ。
この国ではとくに 農業が発達しており、中でもオリーブ、葉タバコの生産がさかんです。またエーゲ海の島々、古代ギリシア時代の遺跡などの観光資源を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんなギリシャの基礎は前8世紀頃築かれたといえます。アテナイ、スパルタ、テーバイといった都市国家(ポリス)がギリシャ各地に建設され政治的・文化的に繁栄。ヨーロッパ文明の基礎が築かれたのです。ポリス衰退にともないローマ帝国に征服されますが、文化レベルでは逆にローマを席巻し存続を続けました。ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国の支配下に。東ローマ帝国崩壊後はオスマン帝国による支配が長らく続きますが、19世紀にギリシャ王国として独立。20世紀には共和制に移行し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなギリシャ共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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現ギリシャ領クレタ島を中心にミノア文明(クレタ文明)と呼ばれる文明が花開く。地中海交易によって発展し、クノッソス宮殿の建設、線文字Aの使用など、地中海世界屈指の先進性がみられた。エーゲ文明前半期の中心を成したが、前15世紀半ばに突然崩壊。原因はサントリーニ島の噴火に巻き込まれたことが有力説として挙げられている。
ギリシャ本土ペロポネソス半島のミケーネを中心にミケーネ文明と呼ばれる文明が花開く。古代ギリシア語表記の線文字Bが使われ、クレタ文明と異なり、宮殿回りに城壁が築かれるなど、戦争が多発していたことが伺われる。衰退したミノア文明に代わり、エーゲ文明後半期の中心を成した。
前1200年頃、ミケーネ文明は突如崩壊した。原因は海の民の襲撃によるものと考えられている。ミケーネ文明の崩壊とともに線文字bも忘れ去られ、古代ギリシアは文字史料の極めて少ない暗黒時代に突入する。
暗黒時代にはドーリア人により鉄器がもたらされたことから、青銅器時代から鉄器時代への転換期でもあります。
ポリス(都市国家)と呼ばれる都市規模の政治共同体がギリシア各地に出現。フェニキア文字から発展しだギリシア文字も使われるようになり、古代ギリシアは有史時代に突入した。ポリス社会が成立すると、ギリシア人による、地中海沿岸地域各地への植民も行われた。
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中東で隆盛したアケメネス朝ペルシアがギリシアに侵攻し、ペルシア戦争が開始される。これをアテナイ、スパルタなどのギリシア連合が迎い討ち、撃退した。この勝利を機にギリシアポリスは政治的・文化的に全盛を迎え、本格的にヨーロッパ文明の源流を成すようになる。
ペルシア戦争後、デロス同盟を通じて圧力をかけてくるアテナイに対し、スパルタなどペロポネソス半島の諸ポリスが反抗。デロス同盟vsペロポネソス同盟という構図の、ギリシア全土を巻き込んだペロポネソス戦争に発展した。結果はペロポネソス同盟の勝利と終わり、ギリシアの覇権はアテナイからスパルタに渡った。
北方から勢力を拡大してきたマケドニア王国に、カイロネイアの戦いで敗れ、ギリシアポリスの大半が同王国の支配下に入る。ギリシアポリスの政治的独立に終止符が打たれた。
マケドニア戦争において、イタリア半島から勢力を拡大してきたローマにマケドニア王国が滅ぼされ、ギリシアはローマ属州となった。しかし文化的にはローマを席巻した。
テオドシウス帝の死によりローマ帝国は東西に分裂し、ギリシアは東ローマ帝国の支配下に入る。ラテン文化中心の西方領と分断されたことで、東ローマ帝国のギリシア化はいっそう進行していくこととなる。
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オスマン帝国により東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、ギリシアはオスマン帝国の勢力圏に組み込まれた。以後ギリシャは、1830年に独立を達成するまで、400年近くのオスマン支配時代を過ごした。
オスマン帝国時代のギリシャ人は「レアヤー」と呼ばれる大多数の被支配身分と「アスケリ」と呼ばれるごく一部の支配層に分かれました。また両者の中間として「マルトロス」と呼ばれるオスマン帝国辺境の防衛を任される身分が存在していました。
フランス革命の影響でナショナリズムに目覚めたギリシャ人が、オスマン帝国からの独立を目指し立ち上がり、ギリシャ独立戦争が勃発した。西欧列強の支援もあり、ギリシア側の勝利と終わり、1830年ギリシャ王国として独立を果たした。
ギリシャ独立戦争に勝利し、1830年ロンドン議定書によってギリシャの正式な独立が決定した。ただしギリシャの独立援助をした列強三か国(イギリス・フランス・ロシア)の介入により、政治的不安定な状況が続いた。
政治的不安定が続く中、ギリシャ独立戦争で戦功をあげた軍人がクーデターを起こし、政権を奪取。憲法を制定し、ギリシャは立憲君主制に移行した。
アテネで再び軍によるクーデターが発生し、オソン1世が廃位に追い込まれる。
オソン1世の退位後、列強三か国(イギリス・フランス・ロシア)推薦のデンマーク王子ゲオルクが、ゲオルギオス1世としてギリシャ王に即位。彼の治世でイオニア諸島、テッサリア、マケドニア、イピロス、テッサロニキ、クレタ島など、古来よりのギリシャ人の土地がギリシャ領に編入された。
バルカン諸国の独立の機運が高まる中、モンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告し、第一次バルカン戦争が勃発した。モンテネグロと同盟関係にあるギリシャも参戦するも、戦時中、国王ゲオルギオス1世がテッサロニキにて暗殺される憂き目にあう。
マケドニアの領有を巡るブルガリアとの対立から、第二次バルカン戦争が勃発した。この戦争に勝利したギリシャはマケドニア地方の中心都市カヴァラを獲得した。
サラエボ事件(1914年)に端を発し、第一次世界大戦が勃発すると、初期は中立の立場をとるも、連合国からの圧力により1917年参戦を決意。戦勝国となった。戦後はオスマン帝国崩壊による混乱に乗じ、トラキア東部やイピロス北部を獲得すべく、小アジアに進軍するも、ムスタファ・ケマルにより撃退された。
ムスタファ・ケマルに敗北したことで、国王コンスタンディノス1世は求心力を失い、軍のクーデターにより退位させられる。その後国民投票により王政の廃止が決定し、ギリシャは共和制に移行した。
王党派勢力が勢いを取り戻し、ギリシャは王政復古を遂げる。八月四日体制と呼ばれるメタクサスによる独裁体制が樹立された。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻(1939年)に端を発し、第二次世界大戦が勃発。ギリシャは中立で切り抜けようとしたが、41年に枢軸国軍の進行を受け、占領された。
パルチザンの抵抗と、連合軍の反攻により、44年10月、ギリシャは枢軸国から解放された。しかし解放後は共産主義者と君主制支持者で分裂し、流血をともなう内戦に発展した(ギリシャ内戦)。
枢軸国占領期におけるパルチザン組織
右派
・「国民民主連盟」(EDES)
・「国民社会解放運動」(EKKA)
左派
・「民族解放戦線」(EAM)
・「民族人民解放軍」(ELAS)
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戦後のギリシャは東西冷戦が激化する中で、反ソ・反共産主義の最前線に立たされることとなり、西側筆頭のアメリカから軍事・経済援助を受けるようになった。その一環として北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、集団安全保障を基礎として、防衛体制を構築した。
オイルショックにともなう不況で国民の不満が高まり、国民投票により君主制の廃止が決定。再び共和制に移行し、ギリシャ共和国が復活を遂げた。この画期的な政変をギリシャでは「メタポリテフシ」と呼ぶ。
欧州連合(EU)の基礎となった欧州共同体(EC)に加盟する。
同年末の政権交代の際、それまでの右派政権が財政赤字をごまかしてユーロに参加していたことが発覚。この財政スキャンダルによりギリシャ経済は史上類を見ない混乱に見舞われただけでなく、ユーロ危機を誘発するなど、国際的大問題に発展した。
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