1795年から99年にかけて、フランス共和国の行政を担った総裁政府総裁
フランス第一共和政は、フランス革命後、共和政を宣言した1792年から、ナポレオンが第一帝政を成立させる1804年まで存続したフランス史上初の共和政体です。結果短命に終わりましたが、絶対王政を打倒し、自由や平等、民主主義という近代市民社会の根幹となる価値観を拡散したという点で、フランス史のみならずヨーロッパ史にも重大な影響をおよぼした政体といえます。
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アンシャン・レジーム(革命前の旧体制)におけるフランスは、免税特権が認められた聖職者や貴族などの〈特権階級〉が、参政権を持たない〈市民〉を支配している階級社会でした。そんなフランスの財政はルイ14世以降苦しい状態が続いており、特に18世紀のフランスは、対外戦争や宮廷での浪費により財政危機に瀕していました。
時の国王ルイ16世は、特権階級への課税案を推進するため、174年ぶりに三部会を開催します。この時、三部会における決議方法に反発した第三身分(市民)たちは三部会を脱会し、新たに「国民議会」を結成。国王はこれを妨害しようと試みますが、反発したパリ市民が絶対王政の象徴バスティーユ牢獄を襲撃したことを機に、フランス全土で農民や労働階級による暴動が発生し、フランス革命の引き金が引かれてしまったのです。
国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言を採択し、91年には財産に基づく制限選挙を定めた憲法を発布します。以上の役目を果たした国民議会は解散し、代わって「立法議会」が成立しました。立法議会では、革命を望まない<立憲君主派>と共和制を求める<ジロンド派>の二勢力が対立していました。優勢となったジロンド派は92年、革命への干渉を仄めかすオーストリアに宣戦布告します。そして同年8月10日、祖国防衛のため全国から招集されていた義勇軍とパリの民衆が王宮を襲い、同時に出来た「国民公会」が王政廃止と共和制を宣言したのです。
国民公会で主勢力となったのは、急進共和派のジャコバン派であり、前国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑してしまいます。これを受け、フランスの革命勢力を自国への脅威とみた絶対王政諸国が第一回対仏大同盟を結成すると、対外危機が高まったフランス国内では、農民反乱が次々と起こるようになります。
ジャコバン派はこの混乱を恐怖政治で収めようとするも、テルミオドールのクーデターで打倒され、代わって95年、穏健共和派による「総裁政府」が成立しました。さらにフランス革命後の不安定な政局の中、革命軍将校として活躍していたナポレオンが国民の圧倒的支持を背景に総裁政府を倒し、「統領政府」を樹立。1804年には皇帝として権力を一手に収めたことで、第一共和政に終止符を打ったのです。
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