フランス第二共和政の特徴

フランス第二共和政は、二月革命により成立(1848年)し、ナポレオン3世による第二帝政の成立(1852年)にともない終焉した共和政体です。フランス革命期の1792年〜1804年に成立した第一共和政に次ぐ共和政体でしたが、激しい政治闘争が続いたため短命に終わりました。

 

 

 

第二共和政の成立

1830年の七月革命によりシャルル10世が追放された後、ルイ=フィリップを国王とした立憲君主制の七月王政が始まりました。しかし七月王政では、納税額による制限選挙が保たれ、数百人の投票によって選出された議員は贈収賄によって左右され、利権政治と密室政治へ堕落し、特権階級によって権力は独占されていきました。

 

当然市民の間に不満が募りますが、ギゾー首相は富裕層や特権階級に不利になる選挙制度の改革に関して、反対の立場を取り続けたため、民衆は選挙権の拡大を要求する政治集会を、宴会の名目で行う「改革宴会」という集会を盛んに開催するようになりました。そしてギゾーが改革宴会の開催すら禁止したことで、反発したパリ市民による抗議行動が開始されたのです。

 

二月革命

民衆の抗議運動に対して軍が発砲し市民側に死者が出たため、市民たちは抵抗運動を強め、3日間の市街戦の末、王宮を占領しました。この事態を受けてルイ=フィリップは退位の上、ロンドンへ亡命。七月王政は崩壊し、フランスは第二共和政に移行したのです。この一連の運動と政変は二月革命と呼ばれ、フランス以外のヨーロッパ諸国にも影響をおよぼしました。

 

第二共和政の治世

臨時政府は、生存権・労働権・団結権などの市民の権利を承認し、労働者を救うための国立作業場の設置などの改革を進めていきました。その一方、政権内部の穏健派と急進派の対立が顕在化し、臨時政府が公共事業のために、農村の自営農民に対する税負担を強化したことで、やがて市民間にも分裂が起き始めました。

 

穏健共和派の躍進

そのような政情不安の中、第二共和政憲法制定のための選挙が、21歳以上の男子普通選挙によって行なわれます。その結果穏健共和派が多数を占め、王党派も票を増やし、反対に急進共和派と社会主義者など、労働者の代表者たちは農村での支持を集めることができず少数に留まりました。この結果を受けて穏健共和派は産業や農業の保護や教会との協力を強め、社会主義勢力の排除を図っていくのです。

 

六月蜂起

1848年6月、穏健共和派が主導権を握った臨時政府は国立作業場を廃止してしまいます。しかしこれに反発した労働者が蜂起を起こしますが(六月蜂起)、穏健共和派は陸軍大臣のカヴェニャックに全権を与えて蜂起を鎮圧、政治を安定させようとしました。一方、王党派はこの蜂起を受け、カトリック勢力を取り込み秩序党を結成。議会における存在感を高めていきました。

 

ルイ=ナポレオンの大統領就任

1848年11月、人民主権・三権分立・大統領制を採用した第二共和政憲法が制定されました。男子普通選挙を定めた規定に従って1848年12月に大統領選挙が執行され、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオンが当選。革命と蜂起で疲れていた多くの国民はルイ=ナポレオンにかつてのフランスの栄光を回復することを期待すると共に、政治の安定を求めたのです。そしてルイ=ナポレオンは共和派を排除し、秩序党のメンバーからなる内閣を発足させました。

 

第二共和政の崩壊

1849年5月、立法議会選挙が執行され、右派の秩序党が705議席中450議席と過半数を獲得、穏健共和派は75議席と惨敗し、急進共和派と社会主義者が合同した左派の山岳党が180議席と健闘、議会は中道派が激減し左右両極化が進む結果となりました。議会では多数派となった秩序党は、ルイ=ナポレオンを無視して、反動的な立法を次々に議決しました。このような議会に対して徐々に民衆が反発し離反していきます。

 

議会に無視されていた大統領ルイ=ナポレオンは、秩序党との対決に踏み切り、1849年11月にバロー内閣を解任、超議会内閣を発足させます。ついで1850年5月の議会で議決された、“普通選挙廃止”に対する民衆の不満を議会に転嫁。各党派の対立を巧みに利用して自身の地歩を固めます。

 

第二帝政の発足

さらにルイ=ナポレオンは、議会が「大統領の再選を禁止する憲法条文」の修正提案を否決したことをきっかけに、1851年12月2日クーデターを起こし、議会を解散させ反対派のすべてを逮捕してしまいます。12月21日には国民投票を実施し、投票率83%、賛成92%という国民の圧倒的な支持を受けてクーデターは承認されたのです。そして翌1852年12月2日、ルイ=ナポレオンはナポレオン3世として国王に即位し第二共和政は終焉、フランスは第二帝政へ移行していきました。