イタリア統一運動の流れをわかりやすく解説

イタリア統一過程(1815?1870年)を示した地図
出典:Unification of Italy?1815?1870?/?Shepherd, William R. ? Historical Atlas (1911) Public Domainより

 

イタリアと聞いて、多くの人が思い浮かべるのはローマやベネチア、フィレンツェといった歴史ある都市。でも実は、こうした街々が「一つの国」としてまとまったのは、意外と最近の話なんです。
というのも19世紀の半ばまで、イタリアは大小さまざまな国や外国の支配に分断されていました。そんな中、「一つのイタリアを作ろう!」という情熱に突き動かされた人々が立ち上がります。彼らの運動こそが「リソルジメント(再興)」、つまりイタリア統一運動です。今回はその全体像を、重要な出来事を押さえながら、わかりやすくかみ砕いて解説していきます。

 

 

イタリア統一運動のきっかけ

長らく分裂状態だったイタリア。ではなぜ19世紀になって、統一を目指す動きが広まっていったのでしょうか?

 

ナポレオンの影響

フランス革命の波に乗って登場したナポレオン・ボナパルトが、イタリア各地にフランス式の制度を持ち込んだことで、人々は「国民国家」という考え方に目覚め始めました。統一イタリアの夢は、ここからじわじわと広がっていったのです。

 

ウィーン体制への反発

ナポレオンの敗北後、1815年に始まったウィーン体制によって、イタリアの各地域はオーストリア帝国や旧支配者たちの手に戻されました。この保守的な支配への反発が、後の革命の火種となっていきます。

 

1848年革命とミラノの5日間

1848年、オーストリア支配下にあったロンバルディア地方の人々が反乱を起こします。なかでもミラノの5日間(3月18日〜22日)は、民衆が街路でバリケードを築き、オーストリア軍を一時的に撤退させた象徴的な出来事。この運動は、イタリア中に革命の波を広げていきました。

 

1848年革命時、ミラノで起こったオーストリアに対する蜂起「ミラノの5日間」

 

ミラノ蜂起の勢いに乗って、北部のサルデーニャ王国(首都トリノ)がオーストリアに戦いを挑みます。しかし結果は敗北。いったんは鎮圧されるものの、「統一は軍事力で勝ち取れる」という考えが王国に根づくきっかけにもなりました。

 

イタリア統一運動の再始動

いったんは鎮圧された統一運動再始動の鍵を握ったのが、サルデーニャ王国の首相カミッロ・カヴール。彼は武力だけでなく、外交でも統一を進めていきます。

 

フランスとの同盟

カヴールは巧みにナポレオン3世(フランス皇帝)と交渉し、見返りとしてサヴォイア地方とニースを割譲する代わりに、オーストリアとの戦争への協力を取りつけます。これにより1859年の第二次独立戦争が勃発。

 

ロンバルディアの獲得

この戦争によって、サルデーニャ王国はロンバルディア地方を手に入れました。これが北部統一の大きな一歩となり、同時に中部のトスカーナなどでも住民投票によってサルデーニャへの合併が進みます。

 

ガリバルディの南部遠征

武人ガリバルディの登場によって、今度は南部の統一が加速します。まさにドラマチックな展開です。

 

1860年、ジュゼッペ・ガリバルディは義勇軍「千人隊」を率いてシチリア島に上陸。そのままナポリ王国(両シチリア王国)を撃破し、南イタリアを解放します。彼の快進撃は、当時のヨーロッパで大きな話題となりました。

 

南北の合流とイタリア王国の成立

ガリバルディは自らの征服地をサルデーニャ王に譲り、1861年、ついにイタリア王国が正式に成立。初代国王はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世でした。

 

イタリア統一運動の総仕上げ

統一は成ったように見えましたが、実はまだ教皇領ヴェネツィアが残っていたんです。

 

ヴェネツィアの獲得

1866年、プロイセンとオーストリアの戦争(普墺戦争)にイタリアが加担した結果、ヴェネツィアを併合することに成功。地図のピースがまた一つ埋まりました。

 

ローマ併合と統一の完成

最後に残ったローマは、1870年の普仏戦争によってフランス軍が撤退した隙を突いてイタリア軍が進軍。これにより教皇領は併合され、ようやくイタリア半島の統一が完了したのです。

 

こうして見ていくと、イタリア統一は戦争、革命、外交、そして民衆の意志が交錯した一大スペクタクルなんですね。特に「ミラノの5日間」は、民衆の力が歴史を動かした鮮烈な瞬間。イタリアという国は、こうしたエネルギーの積み重ねから生まれたわけです。