ボローニャの歴史

ボローニャの街並み

 

ボローニャ(伊:Bologna)は、イタリア北部エミリア・ロマーニャ州に属する州都です。“近代大学の原点”ボローニャ大学を擁する、古来よりの学芸都市として知られます。性差別が根深かった中世社会においても、女性でも能力さえあれば大学に入り、卒業後は様々な職業に就くことができるという、当時にして類まれな寛容と可能性に満ちた場所でした。

 

ボローニャの時代変遷

 

古代

古代ボローニャはもともと「フェルシナ(Felsina)」と呼ばれるエトルリア人の支配地域でしたが、前2世紀以降は「ボノニア(Bononia)」(ボローニャの語源)と呼ばれるローマ人支配地域になりました。ボノニアはやがて、ローマにおける交通の要衝として栄えるようになり、神殿や公衆浴場、劇場、アリーナなどが建設されるなど都市として充実していきました。

 

中世

西ローマ帝国崩壊後、時代が中世に移ると、教皇領の支配下に置かれたのち、11世紀にはヨーロッパ最古の総合大学ボローニャ大学が建てられ、ヨーロッパにおける学芸の中心地として栄えるようになりました。12世紀以降は絹・織物産業などで商業的繁栄を得て、都市国家として政治的独立を獲得。その後、絵画のボローニャ派を生み出し、多くの偉大な建築家や画家を輩出するなど、イタリア・ルネサンスの隆盛にも大きく貢献しています。

 

近代

16世紀以降はルネサンスの終焉や疫病による混乱で衰退していき、19世紀半ばにはオーストリア領に組み込まれます。しかしやがてオーストリア支配への抵抗運動が活発化し、サルデーニャ王国主導のイタリア統一運動(リソルジメント)に合流。その結果、1861年のイタリア統一完成とともに樹立したイタリア王国に編入されていきました。20世紀には工業発展により、住宅地を郊外にまで伸ばす大都市圏を形成。商業や通信の重要拠点として栄えるようになりました。

 

第二次世界大戦

第二次世界大戦(1939〜1945年)においてイタリアは枢軸国勢力として参戦。しかし戦況悪化により、43年には降伏し、連合国側についたので、ボローニャ含め北イタリアはドイツ軍に占領されます。その間、ドイツにおける重要輸送拠点として連合軍の爆撃を受けたため、多くの重要文化財が破壊されています。戦後は「マーシャルプラン」の恩恵を受け復興し、再び工業都市として発展を開始。豊富な観光資源や豊かな食文化なども後押しし、現在ではイタリア有数の経済都市として国家経済を支えています。