ルイ14世の治世でフランスの王権は頂点を迎えた。
絶対王政(絶対王制)とは、国王が制限のない絶対的な権力を振るう政治形態のこと。英語ではabsolutismと呼ばれ、中央集権体制の極地といえる政体です。「絶対」という言葉は、もともと「拘束から解放されている」という意味で、「絶対王政」とはつまり、国王が法や有力機関からの制約から自由で、意のままに支配できる統治体制ということになります。
16〜18世紀の西ヨーロッパにおける、封建社会から近代社会への過渡期に見られた政治形態で、その体現者としては、フランスのルイ14世、イギリスのエリザベス1世、プロイセンのフリードリヒ1世が有名ですが、とくにフランスのルイ14世(在位:1643〜1715 年)の治世は、絶対王政の典型として扱われています。彼が言ったとされる「朕は国家なり」という有名な言葉は、当時王の権力が何よりも優先されていたことを象徴しています。
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ユグノー戦争中ヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世の即位とともにブルボン朝が創始しました。アンリ4世は、戦争で貴族が没落している状態を好機ととらえ、低迷していた王権の再建に取りかかり、後継のルイ13世(在位:1610〜1643年)もその政策を引き継ぎ、伝統的な民主議会である三部会を停止してしまっています。そして次に即位した太陽王ルイ14世が中央集権化を完成させ、完全なら絶対王政を体現したのです。ルイ14世治世下のフランスは、対外戦争(フランドル戦争、オランダ戦争など)や植民地建設にまい進し、ヨーロッパ中に王の威光を轟かせていました。
ルイ14世は、度重なる戦争に加え、ベルサイユ宮殿建設など王威をアピールすることにコストを惜しみませんでした。しかしそのせいで莫大な出費が生じ、やがてフランスは財政難に苦しむようになります。さらにルイ14世は熱心なカトリック教徒であったため、ナントの勅令廃止などでユグノー弾圧を再開し、重要な労働力でもあったユグノーの大量国外流出を招いてしまいます。国力の低下により不景気は加速し、それにともない王権も低下。ルイ16世の治世では民衆の不満が頂点に達したことでフランス革命が勃発し、ついにフランス絶対王政は崩壊に追い込まれてしまうのです。
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絶対王政の仕組みいうのは、以下の5つの基盤をもとに政治的・軍事的・経済的な安定を作りだし、専制政治を行なうことです。逆にいえばこれらのうち1つでも欠けたら絶対王政というのはもろいものでした。
従来の世襲ではなく、実力で選び抜かれた官僚集団が国王の補佐を担う体制のことです。ほぼ全てが貴族出身となります。
戦争のたびに編成される傭兵集団ではなく、平時から国の管轄に置かれ、いつでも国王の命令で動く軍隊です。維持コストは莫大ですが、絶対王政を維持するために最も重要な要素でした。
帝王神権説とも。王権は神から与えられた神聖不可侵なもので、人民の反抗は認められないとする思想です。当初はキリスト教カトリックとの結びつきが強い考え方でした。
官僚制と常備軍を維持するためには莫大なお金がかかります。そのため絶対王政下のフランスでは、「重商主義」と呼ばれる、商業に積極的に国が介入し、輸出を増やし、輸入を減らす、貿易差額主義政策がとられました。簡単にいえば、お金を儲けるために輸出は積極的にやるけど、他国を儲けさせる輸入は控えようという政策です。
多数の労働者を協同して生産にあたらせる、いわゆる分業体制です。資本家が様々な労働者を1つの工場に集め、一括に賃金を支払うことで、効率的な生産が行えるようにしました。
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