フランスがドイツに負けたのは“弱い”から?

1939年、ナチス・ドイツポーランドに侵攻すると、フランスイギリスと共にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦の口火を切っています。

 

 

 

瞬く間にドイツに占領されてしまったフランス

強気に打って出たフランスですが、ドイツ軍の猛攻に対応することができず、翌40年には北フランスを占領され、次いで42年11月にはフランス領北アフリカを奪われています。そして第三共和政は崩壊し、親ドイツのヴィシー政権が実権を握ったことで、フランスは事実上、ドイツの傀儡国となってしまいました。

 

自由フランスによる抵抗運動

一方で、パリ陥落後、ロンドンに亡命していたシャルル・ドゴールはレジスタンス組織「自由フランス」を設立していました。ラジオにて国内外のフランス人にドイツへの抵抗を呼びかけ、その結果、1942年以降、フランス国内ではレジスタンス組織が活発に活動するようになりました。

 

そして1944年6月にレジスタンス組織が主体となってフランス共和国臨時政府が設立。同月にノルマンディー上陸作戦の成功によりパリが解放され、ヴィシー政権は崩壊、大半の領土をドイツから奪還することができました。

 

1945年にはドイツは降伏したことで、フランス全土が臨時政府の支配下に戻ったのです。

 

 

 

フランス軍は”弱い”から負けたのか?

第二次世界大戦時におけるフランスと聞くと「ドイツに為すすべもなくやられ、あっさり降伏してしまった弱い国」というイメージを持つ人も多いと思います。しかし少なくとも当時のフランス陸軍は世界一の軍事力を誇っていました。それでも負けてしまったのは、フランスが弱かったからではなく、ドイツの優れた戦術に全く対応できず、指揮系統などが混乱しているうちに一気に畳みこまれてしまったとみるべきでしょう。

 

裏をかいたドイツの猛攻

ドイツはオランダベルギーを制圧したのち、ベルギー国境からフランスに侵攻。フランスはじめ連合国は、ドイツが第一次世界大戦の時のようにベルギーを蹂躙したのちパリに攻めてくると考えていました。ところがドイツはベルギーのアルデンヌの森林を突っ切って、パリには向かわず、英仏海峡沿いのダンケルクへ向かったのです。完全に裏をかいたドイツ軍の猛攻に、フランス軍は撤退を余儀なくされ、あてにしていたイギリス軍も本土に帰還してしまいました。これ以後、フランス軍は雪崩を打ったように崩壊していき、あっという間に北フランスを占領されてしまったのす。

 

ドイツによる電撃戦

ドイツは戦線を突破するために、集中配備した戦車と、それを支援する航空機による電撃戦をしかけました。この新戦法に、全く対応できなかったのがフランス最大の敗因といえます。というのも、当時フランスにとって戦車はせいぜい歩兵の支援兵器で、ほとんど運用実績がなかったのです。歩兵のために分散配置されていた戦車は、突破してきたドイツ軍に各個撃破されてしまいました。

 

当時の社会情勢

また単純に戦略・戦術ミスだけでなく、当時の社会情勢も敗因の一つといわれています。ドイツは1935年にベルサイユ条約を破棄して再軍備を進め、ファシズム体制のもと挙国一致でのぞんでいたのに対し、フランスは第一次世界大戦で140万人もの死者を出した経験から、厭戦ムードが蔓延しており、戦意・軍備ともに縮小傾向にありました。第一次世界大戦の雪辱を晴らしたいドイツとは、そもそも戦争にのぞむモチベーションに大きな差があったのも大きいでしょう。