東ローマ帝国で信仰されていた宗教は?

正教会のイコン『至聖三者』

 

宗教は古くから、集団や国家の安定において重要な意味を持ってきましたが、その性質故に、時の権力者よって利用されてきたまた歴史も長いです。宗教は社会的弱者の救いになってきた一方で、国家的権威が宗教に融合するようになると(いわゆる「国教」が生まれると)、逆に社会的弱者を排除するのにも利用されるようになったのです。

 

現代では「政教分離」と「信仰の自由」がありますが、古代から中世にかけては政治の裏では宗教が存在し絶えず争いが起こってきました。キリスト教を国教としていた東ローマ帝国はその最たる例といえるでしょう。

 

 

 

東ローマ帝国におけるキリスト教

東ローマ帝国は、ローマ帝国の東西分裂により成立したので、当然国教としていたのも、ローマ帝国時代の国教であったキリスト教です。しかし東ローマ帝国においては皇帝が宗教上の最高決定権を握っていました。当時のキリスト教の中心地はローマでしたが、東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルは、ローマに次ぐ第2位の序列を認められていたのです。

 

ローマ教会の分裂

7世紀以降、イスラム教の影響が大きくなってくると、キリスト教内で考え方の相違が大きくなっていき、11世紀になると教会は東西に分裂します。西方がローマを中心としたローマ=カトリック教会、そして東方が東ローマ帝国のコンスタンティノープルを中心とする正教会です。

 

以降、東ローマ帝国ではコンスタンティノープル総主教庁があるコンスタンティノープルを中心に正教会(ギリシア正教会)が信仰されるようになったのです。

 

 

教会分裂の原因

東西でキリスト教が分裂した背景には、イスラム教の存在があります。7世紀以来、東ローマ帝国の東方、中東地域でイスラム教を柱とした広域国家が台頭し、東ローマ帝国に大きな影響を与えるようになります。

 

キリスト教とイスラム教で1番の違いは「偶像崇拝」を認めているかいないかですが、偶像崇拝を否定するイスラム教の浸透と共に、キリスト教における偶像崇拝を批判する人々が出るようになっていました。そこで、726年、皇帝レオン3世は聖像禁止令を出し聖像を破壊することを命じます。

 

一見、イスラム教に屈服したかのように思えますが、これはむしろイスラム教の浸透を抑えるために本来のキリスト教信仰(聖像崇拝の禁止)に帰ることを目的としたものでした。また、聖像崇拝を続ける教会の土地を没収することで、イスラム国家と戦う軍資金にするという狙いもありました。

 

しかしこの禁止令によって、皇帝権の庇護下にある東ローマ帝国の教会と、西方のローマ・カトリック教会は対立関係になってしまいました。これ以降、カトリック教会とは関係の修復と悪化を繰り返しながら、最終的には11世紀に相互破門という形で分裂したのです。

 

庇護者であった東ローマ帝国と縁を切ったカトリック教会は、800年にフランク王カールをローマ皇帝として戴冠することで、フランク王国を新たな庇護者として受け入れ、関係を強めていきました。