ヨーロッパ文明を構成する重要な要素に、古代ギリシア・ローマ文化、ゲルマン文化、アルファベットなどに並びキリスト教があります。そのため古代ローマにおけるキリスト教の国教化は、ヨーロッパ史で五本の指に入るほど重要な画期といえます。
そして古代ローマでキリスト教が国教に定められたのは、帝政時代の393年の話で、1世紀初めの誕生からずいぶん開きがあります。ローマ帝国の領内で、この宗教が国教化どころか、公認されるようになるまで、様々な苦難があったのです。
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キリスト教は、ユダヤ教を母体にパレスチナに起こってから、使徒の伝道により年々信仰者を増していましたが、当初のローマは、ローマの神々への信仰や皇帝崇拝を市民に強制しており、それを拒否するキリスト教徒は迫害の対象でした。
ネロ帝(在位:54年〜68年)の時代にはローマ大火の犯人に仕立て上げられたり、ディオクレアヌス帝(在位:244年〜311年)の時代にはキリスト教徒に改宗を強制し、聖職者を逮捕投獄してしまう『最後の大迫害』という迫害も起きています。
これほど理不尽な迫害を受けながらも、信徒達はローマの地下墓所カタコンベで人々にひっそりと福音を伝え、信仰を広めていました。地道な布教活動の結果、キリスト教信者の影響を無視すること不可能とみたコンスタンティヌス帝(在位:306年〜337年)は、313年ミラノ勅令でキリスト教の信仰を認めたのです。衰退期にあったローマは迫害よりも宗教による統制の道を選んだのです。
しかしキリスト教の教義には様々な解釈が存在したため、認可したあとでも宗教による統制に混乱を招いてしまいました。そこで324年、教義を確定させるためニケーア公会議という会議が開かれ、アタナシウス派(神とキリストを同一視する)がキリスト教の正統教義として採用されることになりました。
逆に「キリストはあくまで神に仕える従者」と解釈するアリウス派は異端とされましたが、ローマ帝国の外で布教されるようになり、ゲルマン人の間で広まっていくようになりました。
そして392年、テオドシウス帝(在位:379〜395年)がついにキリスト教をローマの国教に定め、逆に異教(ローマ神話信仰など)の信仰を禁じました。そして西ローマ帝国滅亡後は、西欧に勢力の基盤を固めたフランク王国の中で引き続き発展し、中世を通してヨーロッパ全体の精神的支柱となっていくのです。
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