
デンマークの国旗
デンマークの国土
デンマーク(正式名称:デンマーク王国)は 北ヨーロッパの海を挟んでスウェーデンおよびノルウェー、陸上ではドイツと接する地域 に位置する 立憲君主制国家です。国土は ユラン半島および400以上の周辺の島々で構成され、気候区は 大部分が西岸海洋性気候に属しています。首都は 「商人たちの港」、「北欧のパリ」として知られる コペンハーゲン。
この国ではとくに 畜産、農業が発達しており、中でも乳製品、豚肉製品の生産がさかんです。また豊富なエネルギー資源を背景にした石油、天然ガス輸出もこの国の基幹産業となっています。
そんなデンマーク王国の歴史は、10世紀ごろデンマーク王家の始祖ゴーム王に建設されたユトランド半島のイェリング地域から始まるといえます。デンマーク王国はその後14世紀末にスウェーデン、ノルウェーと、デンマークを盟主にしたカルマル同盟を結成し北欧覇権を築きあげます。しかし16世紀初頭のスウェーデンのカルマル同盟離脱、17世紀の三十年戦争における敗北で覇権時代は終わりを迎えます。19世紀のナポレオン戦争の結果、スウェーデンにノルウェーを奪われ、ほぼ現在の領土になりました。第二次世界大戦では一時ドイツに占領されたものの、ドイツ降伏にともない独立を回復し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなデンマーク王国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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前1万2000年頃から現在のデンマークがあるユトランド半島に、人類が居住を始める。
ゲルマン民族の大移動が始まり、ゲルマン民族の一派であるデーン人がデンマークの地に到来する。
現在のデンマークは、中世(8世紀〜11世紀後半)の「バイキング時代」に活躍した、バイキングの1支族デーン人の国で、クヌード大王(在位:1018年-1035年)による北海帝国建設が起源と言われています。クヌード大王の死後、北海帝国は崩壊してしまいましたが、14世紀末、ノルウェー・スウェーデンとの間で、デンマークを盟主としたカルマル同盟が結成されると、北欧全域を支配下におさめるヨーロッパの大国として君臨ました。
「ヴァイキング」と呼ばれる海賊が力を持つ「ヴァイキング時代」に突入。デーン人もヴァイキングとして、主にフランク王国が支配する西ヨーロッパ地域一帯を侵略した。
9世紀には、デンマークにキリスト教が伝わり、徐々に北欧の神々への信仰(北欧神話)が薄れていく。
デンマーク王クヌート2世がイングランドに侵攻。デンマークからイングランド、ノルウェーにまで版図を広げ北海帝国を築き上げる。しかしクヌート2世の死後すぐに崩壊。
スヴェン2世がデンマーク王として即位。
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ヴァルデマー1世が王位につき、王位継承問題で混乱していたデンマーク王国の再建に動き出す。
ヴァルデマー2世の治世のもと、デンマークは安定し勢力を拡大したが、彼の死により再び王位継承問題で揉め混乱の時代に突入した。
ヴァルデマー4世が王位につき、デンマークの混乱収拾に努める。見事に国力を回復させ、「アッテルダーク(再興王)」と称された。
ヴァルでマー4世の死後、孫のオーロフ2世が王位を継ぐ。この時ノルウェー王位も継承したことで、デンマークとノルウェーの同君連合が形成される。
デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3王国間でデンマークを盟主としたカルマル同盟が締結。デンマークは事実上北欧全土を支配下に治めた。
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クリストファ3世が死去し、ホルシュタインのオルデンブルク伯がデンマーク王として即位。後にデンマークをヨーロッパ有数の大国にまでのし上げるオレンボー朝が始まる。
デンマーク支配に抵抗するスウェーデン人を粛清するが(ストックホルムの血浴)、これが逆に独立運動に火を付けることとなり、カルマル同盟は崩壊。責任を問われデンマーク王クリスチャン2世は廃位に追い込まれ、代わりにフレゼリク1世が擁立された。
ルターの宗教改革の影響が及ぶようになり、ハンス・タウセンによりルター派(プロテスタント)の布教が始まる。
フレゼリク1世が死去(1533年)し、クリスチャン2世が復位を目論み伯爵戦争を起こすも、クリスチャン3世に倒される。その後クリスチャン3世はデンマーク王に即位したのち、ルター派を国教とする宗教改革を実施した。
ノルウェーを完全に支配下に置き、デンマーク=ノルウェーを成立させる。
クリスチャン3世が死去し、フレゼリク2世が王位につく。
フレゼリク2世が、伸張を続けるスウェーデンを脅威とみて、宣戦布告し北方七年戦争を開始する。最終的には「シュテッティンの和約」が結ばれ引き分けとなり、スウェーデン再征服という当初の目的は果たされなかった。
クリスチャン2世の死後、息子のクリスチャン4世が王位を継ぐ。
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クリスチャン4世により、インド南岸のトランケバール(現インド・タミルナドゥ州)に、デンマーク初の植民地が建設された。
スウェーデンとトルステンソン戦争を起こし敗れる。
クリスチャン4世の死後フレゼリク3世が即位。スウェーデンとのカール・グスタフ戦争を戦うも敗れ、重要な勢力圏を大幅に消失し、ヨーロッパの小国に没した。
フレゼリク3世は、それまでの選挙王制から世襲王政へと体制を変え、絶対王政を確立した。
フレゼリク3世の跡を継いだクリスチャン5世の下で、デンマーク法が制定された。
大北方戦争が起こり、デンマークは反スウェーデン同盟側として参戦したが、特に戦果は得られず、逆にバルト海の覇権をロシアに握られてしまった。
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一時はヨーロッパ屈指の勢力圏を築き上げたデンマークですが、激動のヨーロッパ情勢で覇権を維持するのは難しく、16世紀にはスウェーデンが分離、19世紀にはデンマークとノルウェーとの同君連合も解消されたことで、ほぼ今と同じデンマークの領土になりました。一時は北欧全域を支配するほどの力を持っていたデンマークですが、19世紀後半の第二次シュレースビッヒ戦争でプロイセンとオーストリアに敗北し、スカンジナビア半島とシュレースビッヒ公国及びホルシュタイン公国を失ってしまいます。北欧の大国としての地位を失った瞬間でした。
以降、デンマークは中立の立場を重視し、戦争にはあまり首をつっこまなくなりました。しかし第二次世界大戦では、中立を表明していたにも関わらず、ドイツに占領されてしまいます。そういった反省もあり、安全保障のための伝統的な中立政策を放棄することを選択し、戦後は北大西洋条約機構(NATO)の創立メンバーとして原加盟国となりました。
このように他の北欧諸国と歩調を合わせたことで、戦後デンマークは順調に経済成長を遂げていきました。今では国民総所得で世界5位と、北欧の先進国として十分な存在感を放っています。
クリスチャン6世の時代に深刻な農業危機が発生し、様々な農業改革が行なわれた。
精神疾患を患っていたクリスチャン7世の代わりに、医者のストルーエンセが摂政となり実権を握る。しかし彼の改革は民衆の大きな反発を呼び、クーデターが発生。ストルーエンセは失脚、処刑された。
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この時代のデンマークは、相次ぐ戦争で疲弊していた一方で、芸術分野では「デンマーク黄金時代」と呼ばれるほどの繁栄を見せていた。
ナポレオン戦争が始まる。イギリスは武装中立の立場をとるデンマークを脅威とみており、コペンハーゲンを攻撃し、デンマーク海軍を破壊した。
デンマークはナポレオン戦争における中立の立場を放棄。フランス勢力として参戦。莫大な戦費を費やし、国家財政が破綻した。
イギリス、スウェーデンと、ナポレオン戦争の敗戦国デンマークとの間で、キール条約が結ばれた。この条約で、デンマークはノルウェーを手放すこととなった。
国内で国民自由主義(ナショナルリベラル)の気運が高まり、1948年革命の後、デンマークは立憲君主国へと体制が移行。成年男子の参政権、報道の自由、結社の自由が認められるなどした。
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第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)の結果、デンマークは肥沃な土地を抱えるシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を手放すこととなった。
デンマークはスウェーデンとの間にスカンディナヴィア通貨同盟を締結。
第一次世界大戦が勃発するも、デンマークは中立の立場をとる。しかし想定外に長引く戦争でヨーロッパ全体が疲弊したので、デンマークの商業も大きく落ち込んだ。
第一次世界大戦にドイツが敗戦したことで、シュレースヴィヒの北部がデンマークに復帰した。
第二次世界大戦が勃発すると、不可侵条約を締結していたナチスドイツに国土を占領される。
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