1848年革命で打倒された「ウィーン体制」とは?

1848年革命とウィーン体制

1848年革命は、ウィーン体制の矛盾を突き崩した運動だ。保守的秩序の下で抑圧されていた自由と民族の要求が一気に噴出したのである。本ページでは、ヨーロッパの国際秩序や革命の連鎖、近代国家の形成などを理解する上で重要なこのテーマについて、より詳しく探っていこうと思う。

1848年革命で崩壊した「ウィーン体制」とは?

1848年革命で崩壊したという「ウィーン体制」とはどのような体制だったのですか?

ウィーン体制とは、ナポレオン戦争後、戦前の国際秩序に戻すべく創出された保守的・復古的な国際秩序のことです。ナポレオンの失脚後に開催されたウィーン会議(1814~1815年)にてその枠組みが作られました。


ジャン=バティスト・イザベイ(1767 - 1855)により描かれたウィーン会議の出席者


この体制下では、神聖同盟四国同盟が中心となり、フランス革命以降、ヨーロッパ各地で高まりをみせた民族主義・自由主義を徹底的に弾圧されていました。


崩壊への下地

しかしラテンアメリカ諸国やギリシアの独立、七月革命で体制に揺らぎが生じ、自由主義改革に踏み切ったイギリスの離反もあり、後々抑えつけていたものが“噴出”する下地は刻一刻と整っていったのでした。