知恵や学芸の神と言われるアテナ
古代ギリシアの教育は、西洋教育史の出発点であり、今日本で行なわれている『学問』という枠組みは、基本的に西洋由来のものです。ということは学問により培われる政治や経済、法律など社会の仕組みそのものも、西洋そして古代ギリシアに由来しているということになります。この事実を知っていれば、ギリシャは地理的に日本から遠くても、とても身近な存在であるということがわかると思います。
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古代ギリシアにおいて、「教育」するという文化は小アジア(現・トルコ周辺)の古代ギリシア植民市イオニアというところで始まりました。イオニアは高度な文明を持つオリエント圏に隣接しており、ここから様々な文化・技術を吸収し、独自に発展させることができた為です。
次いでフェニキア人の「フェニキア文字」を元にした「ギリシャ文字」が発明され、「知識の共有・伝達」=「教育」ができるようになったことで、イオニアを通し様々な情報がギリシャ世界広しに普及していったのです。またヘレニズム時代(前4世紀〜前30年)を通して、古代ギリシア人の識字率は劇的に向上していました。
古代ギリシアには1000以上の都市国家ポリスが存在しましたが、中でも最も教育環境が充実していたのは、海上貿易を軸とした商工業で最も経済的に潤っていたアテナイです。異文化交流と商工業ビジネスを支えるために、「教育」は必須とされ、子供は7歳になると「スコーレ」と呼ばれる私塾に入り、読み書き・計算・体育・音楽などを学びました。※
※ただし教育費は全額親の負担なので、教育を受けられたのは「富裕層の男子」に限りました。
アテナイは民主主義社会だったので、「主張を説得力を持って人に伝える能力」が重要視され、市民権を持った男子の必須スキルとして、「弁論術」の教育に力が入れられました。
ギリシャは基本痩せた土地なので、大多数のポリスは地元に足りない資源を補うため、他のポリスと積極的に交流していましたが、スパルタの地は例外的に肥沃だったので、他国と交流しない孤立無援の鎖国政策をとっていました。
多文化交流もなければ、民主政も極めて限定的な共同体だったので、読み書き、弁論術、芸術などはあまり重視されず、ポリスの自治独立を保持するため屈強な戦士を育てる「軍国教育」のほうに軸足が置かれていたのです。
またスパルタというのは古来より、市民の何倍もの人口の奴隷に支えられた社会だったので、「奴隷の反乱」を警戒して、少しでも反逆の兆候が見られれば躊躇なく殺害し、「奴隷殺し」が訓練の一環として奨励されたくらいでした。
厳しい教育のことを指す「スパルタ教育」という現代の言葉は、スパルタのこの厳しい教育政策に由来しています。
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