パリ講和会議は、第一次世界大戦後に戦勝国が集まり、敗戦国との講和条件や新しい国際秩序を決めた会議である。アメリカのウィルソン大統領が提唱した十四か条も議論された。本ページでは、さらに主要な合意内容や会議の流れなどについても詳しく解説していく。

パリ講和会議における中国の主張
中国は山東省の権益返還を求めたが、列強の利害調整の中で受け入れられなかった。これが五・四運動の契機となった。本ページでは、さらに交渉過程や国内外の反応などについても詳しく解説していく。
実はパリ講和会議には1912年に成立したばかりの中国(中華民国)も参加していました。第一次世界大戦中に力をつけ、1917年にはドイツに宣戦、連合国に加わっていたので、戦勝国として参加資格があったのです。
パリ講和会議では民族自決の原則が採用され、もともとオーストリアやロシアに支配されていた東ヨーロッパ諸国の独立が認められました。中国は、この民族自決原則が当然中国にも適用されると信じて、「二十一カ条の要求」で日本に継承されていた山東省権益の返還を要求します。
しかしその主張ははねつけられました。この会議をリードしていたのは戦勝国のイギリス・フランスであり、イギリス・フランスは日本と山東省の権益を認める密約を交わしていたためです。
ヨーロッパで適用された民族自決原則が、アジアの中国で例外となるのは理不尽です。起こった中国人は五四運動と呼ばれる抗日・反帝国主義運動を展開し、日本製品のボイコットやストライキにまで発展しました。
天安門広場における五四運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれる。
そして北京政府はパリ講和会議から脱退し、ヴェルサイユ条約の調印を拒否するなど抗議の意を表明し、このことは第二次世界大戦までの国際関係に大きな影響を与えたのです。
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