
共和政ローマ社会の構成員は、土地や財産を世襲した上流階級「パトリキ(貴族)」と、中小農民や商工業者を中心とする「プレブス(平民)」という身分に分かれていました。そして共和制初期には少数の貴族が中心となって政策を決定する合議制(貴族寡頭制)がとられ、一握りの貴族が社会の実権を握っている状態でした。
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ローマで商工業が発達してくると、貴族による権力独占に対し、自前で武器を購入し「重装歩兵」として軍隊に加わるようになったプレブス(平民)が「我々も国家に貢献してるのに政治に意見できないのはおかしい」と不満の声を上げるようになります。最初は抵抗していた貴族も、国防に不可欠な平民の声を無視できなくなり、護民官や平民会の設置など、権利の平等化が進められました。
前450年頃には慣習法を成文化した十二表法が制定。これにより貴族に独占されていた法律知識が平民にも公開されるようになります。
また同じ頃、それまで禁止されていた貴族と平民は婚姻がカヌレイウス法により認められ、平民が貴族と婚姻を結び政界に進出することも可能になりました。
前367年にはリキニウス=セクスティウス法により、執政官のうち一人は平民から選ばれるようになり、貴族と平民の階級格差が大幅に縮まります。
また半島統一戦争後、前287年のホルテンシウス法により、平民会の決議が元老院の承認なく国法となることが定められ、平民会が国の立法機関に昇格。これで貴族と平民の身分差がほとんど解消されることになったのです。
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