チェコの歴史年表

チェコの国旗

 

チェコの国土

 

チェコ(正式名称:チェコ共和国)は、中央ヨーロッパの ポーランドスロバキアオーストリアドイツに囲まれた地域に位置する 共和制国家です。国土は ボヘミア地方と、モラビア地方で構成され、気候区は西岸海洋性気候に属しています。首都は 世界遺産にも登録されており「黄金の街」として知られるプラハ

 

この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも自動車や自動車部品、電子機器の生産がさかんです。またユネスコ世界遺産に多数登録されている、文化・自然遺産を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな チェコの歴史は、10世紀にプシェミスル家に建設されたボヘミア公国から始まるといえます。12世紀に正式に王国に昇格し、18世紀後半には、自由主義・民族主義の機運の高まりから多民族連邦国家であるオーストリア・ハンガリー帝国に加入。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、チェコスロバキア共和国として独立。その後は解体・復活を繰り返し、1993年にチェコ共和国として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなチェコの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

チェコの歴史年表

 

古代チェコ

前5世紀から2世紀にかけての古代ヨーロッパでは、現在のチェコにあたる地域は、ケルト系先住民族のボイイ人から「ボヘミア」と呼ばれていました。ボイイ人はこの地域に高度な農業や金属加工の技術をもたらし、交易ネットワークを築いて繁栄しました。やがて2世紀頃には、ローマ帝国の影響が及び始め、さらにゲルマン民族の移動も進行し、この地域の文化と社会に大きな変化をもたらしました。

 

前1300年〜前500年頃 ルサチア文化の繁栄

チェコのモラヴィアを含んだ東ヨーロッパの広い地域でルサチア文化(ラウジッツ文化とも)が栄える。この文化は、青銅器時代から鉄器時代にかけて発展し、特に高度な陶器製作や防御的集落の建設で知られている。ルサチア文化の人々は農業を基盤とし、金属加工技術の進歩により、地域の経済と社会構造に大きな影響を与えた。

 

前5世紀

前5世紀になるとモラヴィアで栄えていたルサチア文化が消滅する。原因は諸説あるが、遊牧民族のスキタイ人の侵略によるものという説が有力。

 

1世紀

ゲルマン民族のマルコマンニ、クァディ、ランゴバルドがチェコに定住を始める。これらの部族は、ローマ帝国との境界付近に住み、しばしばローマとの紛争や同盟関係を繰り広げた。彼らの定住は、地域の文化と経済に影響を与え、その後の歴史的発展における基盤を築いた。マルコマンニ戦争(166年-180年)など、この地域の歴史に重要な役割を果たす出来事も起こった。

 

2世紀

162年 マルコマンニ戦争の勃発

ローマ帝国北方国境のドナウ川流域で、ローマ帝国とマルコマンニ同盟(マルコマンニ、クアディ、ヴァンダル、サルマタイ)の武力衝突「マルコマンニ戦争」が発生した。

 

この戦い、一応はローマが勝利しましたが、かかった軍費に対して得られるものが釣り合わず、以後ローマ帝国は衰退の道を歩むこととなります。古代ローマ史の転換点となった重要な戦いの一つです。

 

5世紀 チェック人の定住

ゲルマン民族が西へ移動したことで、西スラヴ系民族のチェック人(現在のチェコ人の祖先)が定住を始める。この移動と定住は、民族の融合と文化の交流を促進し、チェコの地に独自のスラヴ文化が形成される契機となった。チェック人の定住により、後にボヘミア王国やモラヴィア公国が発展する基盤が築かれ、チェコの歴史が本格的に始まった。

 

476年 西ローマ帝国の崩壊

西ローマ帝国が崩壊し、様々な部族がこの地域を通過または定住するようになった。これに伴い、ローマの統治機構や文化の影響が減少し、地域はより分散的な支配形態に移行した。

 

中世チェコ

中央ヨーロッパに位置し、プラハを首都にもつチェコ共和国は、9世紀頃、大モラヴィア帝国がチェコ・スロバキア両民族の統一国家として成立したことを起源としています。その後神聖ローマ帝国体制下で、現代チェコの前身であるボヘミア王国が興り、中央ヨーロッパ最大の国家(領邦)として繁栄しました。

 

7世紀

630年頃 サモ国の建国

フランク人商人サモが、当時の支配者であるアヴァール人に反乱を起こし、モラヴィアを中心に王国(サモ国)を建国する。この王国は、スラヴ人の初の政治的統一体として重要な役割を果たし、周辺のゲルマン部族やビザンツ帝国との外交や軍事的対立も経験した。サモ国の成立は、スラヴ人の自立と結束を象徴する出来事であり、後の大モラヴィア王国の形成への布石となった。

 

8世紀

キリスト教が伝わり、徐々に土着の信仰宗教(スラヴ神話)から改宗が進行した。この改宗の過程では、宣教師たちが重要な役割を果たし、教会や修道院の建設が進められた。キリスト教の普及により、チェコの社会構造や文化は大きく変化し、ヨーロッパのキリスト教圏への統合が促進された。この宗教的変革は、後の大モラヴィア王国の時代においても重要な影響を及ぼすこととなった。

 

9世紀

833年頃 モラヴィア王国の建国

アヴァール人の国家が消滅したあと、モラヴィア人は勢力を拡大していき、サモ国を基礎としたモラヴィア王国が建国した。モラヴィア王国は、チェコの歴史において初めての統一王国であり、政治的、文化的な中心地として繁栄した。この王国は、キリスト教のさらなる普及を推進し、聖キリルとメトディウスの布教活動によりスラヴ文化が一層発展した。また、モラヴィア王国は周辺諸国との外交関係や戦争を通じて地域の安定と拡大を図った。

 

モラヴィア王国全盛期は、チェコ、スロバキアを中心に、ポーランド、ハンガリー、オーストリアの一部まで支配下に治めていました。

 

870年 プラハ城の建設

プラハ城の建設が始まり、ボヘミア地方の政治的、文化的中心地としての基盤が築かれた。プラハ城は戦略的な要塞としてだけでなく、王室の居住地や行政の中心としても機能した。この建設は後にプラハが繁栄する都市へと成長する礎となり、チェコの歴史における重要な転換点となった。プラハ城は今でもチェコの象徴として、多くの歴史的な出来事の舞台となっている。

 

10世紀

907年頃 モラヴィア王国の崩壊

東フランク王国の圧力や、東方の遊牧民族マジャール人の攻撃を受け、モラヴィア王国が崩壊する。この崩壊により、モラヴィア地方は政治的混乱と分裂を経験し、地域の勢力図が大きく変動した。モラヴィア王国の崩壊後、チェコの地は様々な勢力による支配を受けることになり、その後のボヘミア王国の成立へと繋がる重要な歴史的転換点となった。

 

11世紀

11世紀になるとドイツ人の移住が進み、ドイツ文化が浸透していった。この時期、多くのドイツ人がチェコの地に移り住み、都市の建設や経済活動を活発に行った。彼らは商業や工業の発展に寄与し、ゴシック建築やドイツ語の影響がチェコ文化に見られるようになった。この文化的融合は、後のボヘミア王国の繁栄と多様性に大きな影響を与えた。

 

1003年 ピャスト朝の支配下に

ポーランド王朝のピャスト朝がチェコ全土を支配下に置き、ボヘミア公となる。この支配により、チェコの政治構造は一時的にポーランドの影響下に入り、両地域の文化や経済の交流が促進された。

 

1029年頃 ボヘミア王国がモラヴィアを編入

ボヘミア王国がモラヴィアを編入し、統一された支配体制を確立。これにより、ボヘミア王国の領土が拡大し、政治的安定と経済的発展が促進された。

 

1063年 オロモウツに司教座設置

モラヴィア地方中部のオロモウツに司教座が設置される。これにより、オロモウツは宗教的な中心地としての役割を担い、キリスト教の普及と教会の権威が強化された。司教座の設置は、地域の文化と教育の発展にも寄与した。

 

12世紀

1182年 モラヴィアが辺境伯領に昇格

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世により、モラヴィアが辺境伯領に昇格。この昇格により、モラヴィアは政治的地位を高め、地域の自治権が強化された。

 

1187年 オロモウツが辺境伯領の首都に

オロモウツがモラヴィア辺境伯領の首都に指定され、政治的、経済的中心地として重要な役割を果たすようになる。この指定により、オロモウツはさらなる発展を遂げ、地域の行政および文化の中心としての地位を確立した。

 

13世紀

13世紀に入り、ボヘミア王国は、豊富な鉱物資源や商業の発達を背景に大いに発展した。特に銀鉱山の発見により経済が活性化し、プラハを中心とした都市の繁栄が進んだ。この時期、ボヘミア王国は国際的な影響力を持つようになり、神聖ローマ帝国の中でも重要な地位を占めるようになった。

 

14世紀

1306年 プシェミスル朝が断絶

ボヘミア王国が神聖ローマ帝国に敗れ、プシェミスル朝が断絶。これにより、ボヘミア王国は一時的に混乱期に入り、新たな王朝の統治が必要となった。

 

1344年 プラハ大司教区の設置

プラハに大司教区が設置され、チェコ地域の宗教的中心地としての地位が確立された。これにより、宗教的権威が強化され、カトリック教会の影響力が増大した。

 

1348年 プラハ大学設立

神聖ローマ皇帝カール4世によってプラハ大学が設立される。これは中央ヨーロッパで最初の大学であり、教育と学問の中心地として大いに栄えることとなった。プラハ大学の設立は、チェコの知識人層の育成と文化の発展に大きく寄与し、ボヘミア王国の学術的な地位を国際的に高める重要な出来事となった。

 

近世チェコ

近世におけるチェコの特徴は、ハプスブルク帝国の支配下にあったことが挙げられます。1526年にボヘミア王国がハプスブルク家の統治下に入ると、チェコ地域はオーストリア・ハンガリー帝国の一部となり、強力な中央集権化とカトリックの再カトリック化政策が進行しました。1620年の白山の戦いでは、ボヘミアのプロテスタント貴族が敗北し、ハプスブルク家の絶対主義とカトリック化がさらに強化されました。この時期、チェコは政治的自由と宗教的多様性を失いましたが、同時に経済的には商業や工業が発展し、プラハは文化的・知的中心地として栄えました。

 

15世紀

1419年 第一次プラハ窓外放擲事件/フス戦争の勃発

第一次プラハ窓外放擲事件が発生し、フス戦争が勃発する。この事件では、フス派の指導者たちがプラハ市役所の窓から王党派の役人を放擲し、これがフス派とカトリック教会・神聖ローマ帝国との間の宗教戦争の引き金となった。フス戦争は、チェコの宗教改革運動を象徴する重要な出来事であり、チェコ国内の政治的・宗教的対立を激化させ、長期間にわたる紛争を引き起こした。

 

17世紀

1618年 三十年戦争の勃発

敬虔なカトリックのフェルディナント2世がプロテスタントを弾圧。反発したプロテスタントの民衆が反乱を起こし(第二次プラハ窓外放擲事件)、三十年戦争が始まった

 

1619年 フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝に即位

フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝に即位。この即位は、三十年戦争の重要な転換点となり、ボヘミアにおけるカトリック教会の復権を目指す彼の政策が、プロテスタント勢力との対立を深めた。フェルディナント2世の即位は、ボヘミア反乱の激化を招き、最終的には白山の戦い(1620年)でのボヘミア軍の敗北と、ハプスブルク家によるボヘミア支配の強化につながった。

 

1620年 フェルディナント2世のボヘミア出兵

ボヘミア議会がフェルディナント2世を廃位し、新国王としてプロテスタント同盟のフリードリヒ5世を迎えることを決定。これをうけ皇帝フェルディナント2世はボヘミアへ出兵。フリードリヒ5世を退位に追い込んだ。

 

1648年 ヴェストファーレン条約の締結

近代国際法の元祖ともいわれるヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争が終結。プロテスタントの権利も認められた。この条約により、神聖ローマ帝国内の領邦が自らの宗教を選択する権利を得るとともに、チェコ地域も戦争による大きな被害から復興を目指すこととなった。ヴェストファーレン条約は、ヨーロッパの政治地図を再編成し、主権国家の概念を確立する重要な一歩となった。

 

近代チェコ

19世紀初頭に開始されたナポレオン戦争神聖ローマ帝国が滅ぼされると、ボヘミア王国はオーストリア帝国に併合されることになります。その後オーストリアは自国の影響力低下を危惧し、ハンガリーと合同し、オーストリア=ハンガリー帝国に。この合同でオーストリア=ハンガリーは大いに栄えましたが、20世紀に入ると第一次世界大戦における打撃で崩壊してしまいます。宗主国が消滅したことで、チェコはスロバキアとともにチェコ・スロバキアとして独立を果たしたのです。
しかしこの20年後に起こる第二次大戦の直前、ナチス・ドイツに併合され、チェコスロバキアは解体されてしまいます。ボヘミア・モラヴィア地方はドイツの「保護領」となりました。終戦するとドイツ軍は撤退しましたが、今度はソ連の強い影響のもと、共産党一党独裁体制が確立され、チェコスロバキア社会主義共和国が成立しました。

 

18世紀

1741年 オーストリア継承戦争の勃発

オーストリア継承戦争で、シュレージエン地方のほとんどをプロイセンに征服される。この戦争はマリア・テレジアのオーストリア継承を巡って勃発し、チェコを含むボヘミア王国も戦場となった。戦争の結果、ハプスブルク家はシュレージエンの大部分を失い、プロイセンの勢力が拡大した。

 

19世紀

1867年 オーストリア・ハンガリー帝国の建国

1867年にオーストリア・ハンガリー帝国が建国され、チェコはこの二重帝国の一部として組み込まれる。この二重帝国体制により、ボヘミアとモラヴィアはオーストリア領として統治され、民族的な自立運動や自治権の拡大を求める動きが高まった。チェコ人の民族意識はこの時期に一層強化され、後の独立運動の基盤が築かれた。

 

20世紀前半

1918年 チェコスロバキアの建国

第一次世界大戦(1914年)の終結後、チェコとスロバキアが合同しチェコスロバキアが建国される。

 

1938年 ミュンヘン会談

ミュンヘン会談で、ズデーテン地方(現在のチェコの外縁部の領域)をドイツに割譲することが決定。イギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が集まったこの会談で、チェコスロバキア政府は招かれず、ズデーテン地方の割譲を強制された。この決定により、チェコスロバキアの防衛力は大きく弱体化し、翌年にはナチス・ドイツによる完全な占領とボヘミア・モラヴィア保護領の設立につながった。

 

1939年 第二次世界大戦勃発/チェコスロバキアの解体

第二次世界大戦勃発。チェコスロバキアは侵攻してきたナチス・ドイツにより解体・消滅される。ドイツはボヘミアとモラヴィアを保護領として併合し、スロバキアは独立国としてナチスの傀儡政権を樹立。チェコスロバキアの解体は、ナチス・ドイツの東欧支配拡大の一環として行われ、地域の人々は強制収容所や戦時労働などの過酷な状況に置かれることとなった。

 

1941年 リディツェ村の虐殺事件

第二次世界大戦中、チェコの中央ボヘミア州にある村で、ナチスドイツの軍隊に住民が虐殺される事件が発生する。この事件は、ナチス高官ラインハルト・ハイドリヒの暗殺に対する報復として行われ、村の男性住民は全員射殺され、女性と子供は強制収容所に送られ、村は完全に破壊された。

 

1944年 スロバキア民衆蜂起

ナチス占領下のスロバキアで、反ナチス運動としてスロバキア民衆蜂起が発生する。スロバキアの民衆と反乱軍は、ドイツ軍に対して武装抵抗を試みた。この蜂起は、ソ連赤軍の進軍と連携して行われたが、ドイツ軍によって鎮圧された。しかし、この蜂起はスロバキアのナチス占領に対する重要な抵抗運動として歴史に刻まれ、戦後の独立運動の象徴ともなった。

 

1945年5月5日 プラハの戦い

チェコスロバキアのプラハにて赤軍とドイツ軍が衝突。赤軍が勝利した。この戦いは第二次世界大戦末期における東部戦線の重要な戦闘であり、プラハの解放に繋がった。赤軍の勝利はチェコスロバキアのナチス占領からの解放を意味し、戦争終結に向けた重要な一歩となった。

 

1945年5月8日 ナチス・ドイツの降伏

ナチス・ドイツが降伏しチェコスロバキアは独立を回復するも、戦後はソ連の強い影響下に置かれる。チェコスロバキアは社会主義体制を導入し、東側陣営の一員として再編成された。ソ連の影響力の下で、新たな政治体制が構築され、国内の再建と共に冷戦期の政治的緊張の中で歩みを進めることとなった。

 

現代チェコ

戦後、共産主義体制の改革を進める「プラハの春」が起こると、民主化活動が活発化。ソ連の介入もあり弾圧が行なわれましたが、冷戦末期には「ビロード革命」により共産党独裁体制打倒に成功します。その後ただちに国名を改称し、「チェコスロバキア連邦共和国」が成立しました。チェコスロバキア連邦共和国成立まもなく総選挙が行われ、チェコでは右派市民民主党のODSが、スロバキアではスロバキアの独立を志向する民主スロバキア運動のHZDSが、それぞれ第1党に躍進しました。この結果、ODSとHZDSは連邦解体で合意することとなり、連邦議会において連邦解体法が可決。チェコ共和国、スロバキア共和国という、別々の独立国として歩みを始めることになったのです。なお、分離独立後の数年間は低失業率・安定したインフレ率のもとで順調な経済成長を示し、「チェコ経済の奇跡」と呼ばれましたが、その後の成長率は鈍化しています。

 

20世紀後半

1948年 二月事件

戦後共産党による政変(二月事件)が発生。わずかに残っていた右派、中道派が政権から一掃され、完全な共産化を遂げた。

 

1968年 プラハの春

民主化に向けた政変(プラハの春)が起こる。ドプチェクが共産党第一書記となり、国家による事前検閲の禁止するなど改革を行なった。

 

1969年 フサーク政権の誕生

社会主義体制崩壊を危惧したソ連が、ワルシャワ条約機構軍を進軍させ民主化の動きを圧殺。ドプチェクが解任され、フサーク政権が誕生した。

 

1986年 ペレストロイカの開始

ソ連でペレストロイカが始まり、チェコスロバキアでも再び民主化の気運が高まる。この改革運動は、チェコスロバキア国内の政治的自由化や経済改革を促進し、国民の間で共産党体制への不満がさらに高まった。

 

1989年 ビロード革命

反体制組織の「市民フォーラム」の主導でビロード革命が起こり、共産党による全体主義体制が崩壊する。平和的な抗議運動と市民の大規模なデモにより、共産党政権は退陣し、チェコスロバキアは民主化を達成した。この革命は、東欧の他の国々にも影響を与えた。

 

1993年 チェコ共和国の建国

スロバキアとの連邦制を解消し、チェコ共和国が成立した。チェコスロバキアは平和的に分離し、チェコ共和国とスロバキア共和国の二つの独立国家が誕生した。この分離は「ビロード離婚」として知られ、両国は友好関係を維持しながらそれぞれの道を歩み始めた。

 

21世紀

2004年 欧州連合(EU)に加盟

チェコは欧州連合(EU)に正式に加盟し、ヨーロッパの政治的・経済的統合に参加することとなった。これにより、チェコの市場は拡大し、EUの政策や規制を導入することで、経済の安定と成長が促進された。

 

2007年 シェンゲン協定に加盟

チェコはシェンゲン協定に加盟し、欧州連合内での国境検査が廃止された。これにより、人々の移動が自由になり、ビジネスや観光が活発化した。

 

2013年 ミロシュ・ゼマンが大統領に選出

チェコ共和国初の直接選挙による大統領選挙で、ミロシュ・ゼマンが大統領に選出された。ゼマンの選出は、チェコの政治に新たな方向性をもたらし、内政・外交政策に影響を与えた。

 

2016年 チェコがユネスコ無形文化遺産に登録

チェコの伝統的な鞭打ち祭り「ヴェラリカ」などがユネスコの無形文化遺産に登録され、チェコの文化遺産の国際的な認知度が向上した。

 

2020年 COVID-19パンデミック

チェコも新型コロナウイルスのパンデミックに直面し、政府はロックダウンや経済対策を実施した。パンデミックは社会と経済に大きな影響を与え、医療システムや公衆衛生の重要性が再認識された。

 

2021年 ワクチン接種の推進

チェコはCOVID-19ワクチン接種を全国的に推進し、パンデミック収束に向けた取り組みを強化した。ワクチン接種の進展により、経済活動の再開と社会の正常化が期待された。

 

2023年 政治改革と環境政策の強化

チェコ政府は政治改革と環境政策の強化を進め、持続可能な発展と気候変動対策に取り組む姿勢を明確にした。新たな政策は国際的な評価を受け、チェコの国際的な地位の向上に寄与した。

 

以上が古代から現代にかけてのチェコ史になります。古代にはケルト人やゲルマン人が住み、スラヴ人が6世紀に移住してきました。中世にはボヘミア王国が形成され、プラハは神聖ローマ帝国の重要都市となりました。近世にはハプスブルク家の支配下で再カトリック化が進行しました。20世紀にはチェコスロバキアとして独立し、ナチス・ドイツやソ連の支配を経て、1989年のビロード革命で民主化を達成しました。1993年にはチェコ共和国として独立し、EUとNATOに加盟し、経済的・政治的に安定した国家として成長を続けています。