セルビアの国旗
セルビアの国土
セルビア(正式名称:セルビア共和国)は、南東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土は北海道と同様の面積を有しています。国土の大半は温帯に属しますが、南西部は亜熱帯、大陸性の気候帯に属します。首都はヨーロッパでも最古の都市として知られるベオグラードです。
この国の主力産業は、自動車や機械類、発電、穀物・果物・家畜などの農業関連でありますが、セルビアの成長産業として注目されているのが情報通信技術(ICT)産業です。
セルビアは戦後しばらくはユーゴスラヴィア連邦の盟主として立ちまわりますが、その指導者ティトーが1980年に死去したのを機に連邦の解体が開始。連邦維持の立場のセルビアと、連邦離脱を目指す国々による内戦に発展しました。内戦を経て、連邦に残ったモンテネグロと新ユーゴスラヴィア連邦を構成するも、コソヴォ問題から対立し2006年にモンテネグロが分離。セルビアがユーゴスラビア連邦の継承国を宣言し現在にいたる、というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなセルビアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代(西ローマ帝国崩壊前)のセルビア地域は、様々な民族と文化が交錯する地域であり、古代ローマに征服される以前にはイリュリア人やトラキア人などの古代民族が住んでいました。ローマ帝政期には、ローマ帝国の一部となり、その影響下で、都市化が進み、道路網や都市が建設されました。
とりわけシルミウム(現在のスレムスカ・ミトロヴィツァ)は重要な軍事拠点として繁栄し、ローマ帝国の最重要都市の一つとなりました。今も多くのローマ時代の遺跡が残っており、ローマ風の公共施設や建築物が見られます。
しかし3世紀から4世紀にかけて、バルカン半島はゴート族や他のゲルマン系民族の侵入を受け衰退、これが後に西ローマ帝国の崩壊に繋がる一因となりました。
古代セルビアの特徴は、地理的な要因から多くの文化と民族が交わる場所であり、ローマ帝国の影響を強く受けたことです。この時期のセルビアは、後の中世セルビア王国の形成に繋がる文化的、宗教的な基盤を築いた重要な時代でした。
「国家」としてのセルビアの歴史は中世から始まりまります。7世紀初頭頃からセルビア南西部のラシュカと呼ばれる地域にセルビア人が定住を始め、12世紀頃までは部族同士の内部抗争が続いていました。12世紀末にようやく東ローマ帝国の支配を脱し、セルビア人による統一国家ネマーニャ朝セルビア王国が成立し、14世紀までにバルカン半島最大の国に成長しました。
しかし14世紀末にオスマン帝国との抗争に敗れ、以後400年以上にわたりその支配を受けることになります。
7世紀のセルビアは、大きな変革の時代でした。この時期、スラブ人の一派がバルカン半島に移住し始め、現在のセルビア地域に定着しました。そして、彼らは周囲のビザンティン帝国や他の部族国家との関係を築きながら、自身の地位を確立していくことになるのです。また、この時代にはキリスト教がスラブ人の間で広まり始め、文化的な変容も進行しました。地域の小規模な部族集団から、より組織的な政治体制へと進化していく過程で、セルビアの基礎が形成されていったと言えるでしょう。
8世紀のセルビアは、バルカン半島におけるスラブ人集団のさらなる発展期でした。この時代、セルビアの地に住むスラブ人は、ビザンティン帝国との関係を深めつつ、自身の文化的なアイデンティティを確立していきました。また、この時期には、ビザンティン帝国の影響を受けながらも、地元のリーダーや族長たちが自立的な政治体制を築いていく過程が見られます。これにともない、キリスト教がさらに広がり、それがセルビアの社会や文化に根ざしていくこととなったのです。この時期のセルビアは、部族的な共同体からより組織的で統一された形態への過渡期として重要であり、後の中世セルビア王国の基礎が形成されていたのです。
9世紀のセルビアは、政治的にも文化的にも大きく発展した時代です。この期間、セルビアは初めての統一的な国家形態を迎え、ヴィシェスラヴと呼ばれる最初のセルビア王が登場しました。ヴィシェスラヴの治世下で、セルビアは周囲のスラブ諸国との同盟を強化し、特にブルガリア帝国との関係を築きながら地域の影響力を拡大していきました。
また、この時代にはキリスト教の受容が進み、文化的な統一が進む重要な要素となりました。宗教の統一は、セルビアの国家アイデンティティを形成する上で不可欠であり、また社会の組織化や法の制定にも大きな影響を与えたのです。そして、これらの動きはセルビアが地域の主要な勢力として成長する土台を築いたと言えます。
10世紀のセルビアは、中央権力の強化と地域の支配者たちの間での政治的な確立が進んだ時期です。この時代にセルビアは、皇帝サムイルのブルガリア帝国との抗争を経て、政治的な独立と地域の覇権を確立しようとしました。また、この世紀の中ごろ、セルビアの領土は、ビザンティン帝国との境界線を巡る紛争の場となり、それがセルビアの外交政策に大きな影響を与えたのです。
さらに、10世紀のセルビアでは、キリスト教の教会組織が確立し始め、これがセルビアの文化や社会構造に深い影響を与えていきました。この時期に設立された多くの修道院や教会は、セルビア正教会の中心となり、セルビアの宗教的なアイデンティティを強化する役割を果たしました。
このように、10世紀のセルビアは、政治的な自立を目指し、さらに宗教的な基盤も固めるなど、その後の発展に必要な多くの要素が整っていた時期なのです。
11世紀のセルビアは、内政の安定化と地域勢力としての地位の確立が進んだ時代です。この時代、セルビアはビザンティン帝国との関係を密にしつつも、自国の自治を保ち続けるバランスを取ることが求められました。とりわけ、ビザンティン帝国との同盟関係を通じて、セルビアは経済的な恩恵を受けると同時に、政治的な影響力も増していきました。
この時期のセルビアは、ジュパン(地方領主)たちによる小規模な領土が多く、各地で地方領主たちが実権を握っていましたが、中央集権的な統治体制への移行が徐々に進められていました。また、この世紀には、セルビア正教会がさらに組織化され、国内での宗教的な統一が進むとともに、文化や教育の発展にも寄与しました。なおかつ、この宗教的な統一は、セルビアの民族意識を強化する効果も持っていたのです。
このように、11世紀のセルビアは、政治的自立と文化的アイデンティティの強化を同時に進めることで、その後の独自の発展へと繋がっていったのです。
12世紀のセルビアは、国家としてのアイデンティティと中央集権体制を強化する重要な時代でした。この時代にセルビアは、ネマニッチ朝のもとで初の王国が成立し、ステファン・ネマニャがセルビア大公として政治を統一しました。ステファン・ネマニャのリーダーシップの下で、セルビアは経済的、文化的、そして軍事的にも強化され、周辺国との関係を巧みに操ることで地域の大国としての地位を確立しました。
また、この時代には、キリスト教の影響がさらに深まり、多くの教会や修道院が建設されました。これらの宗教施設は、セルビアの文化遺産としても重要であり、セルビア正教会の影響力を国内外に示す象徴となりました。そして、ステファン・ネマニャの息子であるスヴェトスラヴとサヴァは、それぞれ国家の政治と宗教の面で重要な役割を果たし、セルビア正教会の独立を実現しました。
このように、12世紀のセルビアは、政治的な統一と宗教的な独立を達成し、国としての強固な基盤を築いた時期なのです。
ステファン・ネマニャがセルビアの部族を統一。ビザンティン帝国の支配から抜け出し、ネマーニャ朝セルビア王国を建設する。以後この王朝がセルビアを200年にわたり支配する。
13世紀のセルビアは、国家の発展と地域の勢力拡大において顕著な成果を見せた時代です。この時代にセルビアは、ステファン・ネマニャの息子ステファン・ネマニッチが最初のセルビア王として戴冠しました。王国の正式な成立は、セルビアが独立国として他国に認知される重要なマイルストーンとなり、政治的なレベルでも国際的な地位が確立されました。
この世紀のセルビアは、ビザンティン帝国との間で巧妙にバランスを取りながら、内政の整備に努めました。また、この時期には経済の発展が進み、特に鉱業が盛んになりました。鉱物資源の開発は、セルビアの経済基盤を強化し、それに伴い工芸品や交易も活発化しました。そして、国内外の交易を通じて、セルビアは金銭的な繁栄を享受することができたのです。
さらに、この時代には文化と芸術が花開き、多くの教会や修道院が建設され、宗教芸術が隆盛を極めました。これにともない、セルビア正教会は、国民の間でさらにその影響力を強め、文化的なアイデンティティの形成に大きく寄与したのです。
このように、13世紀のセルビアは、政治的、経済的、文化的な多角的発展を遂げた時期だったといえます。
ステファン・ネマニャの息子ステファン・ネマニッチが教皇ホノリウス3世に戴冠され、公式に認められた初のセルビア王となる。これによりセルビアは公式に王国として認められた。
1219年、セルビア正教会が独立した教会組織として公式に成立。この成立は、セルビアの文化と国家アイデンティティの確立に大きく寄与した。セルビア正教会は、ビザンツ帝国の正教会から自主性を獲得し、国内での宗教的統一とセルビアの国際的な地位向上に重要な役割を果たしたといえる。
14世紀前半にセルビアは政治的・経済的に最盛期を迎えました。ドゥシャン法典が定められ、領土拡大によりその国力はビザンティン帝国に肩を並べるようにもなったのです。しかし14世紀後半には新興のオスマン帝国との抗争に敗れ、以後オスマン帝国の属国として400年以上を過ごすことになります。しかしその中でもセルビア正教会や民族叙事詩を通して、セルビア人としてのアイデンティティを維持していました。
セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンにより、それまでのセルビア慣習法を集大成したドゥシャン法典が制定される。東ローマ帝国の法典が参考にされた。
オスマン帝国の侵攻を受けネマニッチ朝が断絶する。代わってセルビアの統治者となったラザル・フレベリャノヴィチは、オスマン帝国へ臣従する道を選んだ。
バルカン半島中部のコソボにて、セルビア王国とオスマン帝国の対戦が行われる。セルビアはこの戦いに敗れ、以後オスマン帝国に服従を強いられるようになる。
イスラム勢力のオスマン帝国が、バルカン半島における覇権を確立したことは、ヨーロッパキリスト教世界にとって看過できない事態でした。1396年にはニコポリスの戦いでヨーロッパ連合軍とオスマン帝国軍が戦いましたが、オスマン帝国はこれに圧勝し、バルカン半島支配を決定的なものにしています。
15世紀のセルビアは、オスマン帝国の進出とその支配下への移行が顕著な時代でした。前世紀末のコソボの戦いでセルビアはオスマン帝国と激しく対峙しましたが、結果的にオスマン帝国の優勢が確立され、セルビアの運命が大きく変わりました。そして15世紀の間に、オスマン帝国は徐々にセルビアを完全に支配下に置き、1459年にはセルビアの首都スメデレヴォが陥落し、セルビア王国が事実上消滅しました。
この時期のセルビアは、頻繁に起こる戦争や政治的不安定の中で、国民としての一体感や独自の文化、正教会を通じた宗教的アイデンティティを維持しようと努めました。また、オスマン帝国による支配体制の中で、セルビア人は様々な形での抵抗を試み、自らの権利と文化的アイデンティティを守ろうとしたのですね。
このように、15世紀のセルビアは、外部勢力の支配に抗いつつ、内部的には自己のアイデンティティを保持し続ける試練の時期だったといえます。
16世紀のセルビアは、オスマン帝国の厳しい支配下にあり、その影響で多くの社会的、文化的変化が生じました。この時代、セルビアはオスマン帝国の一部として「サンジャク」と呼ばれる行政区に組み込まれ、セルビア人は多くの制約の下で生活を余儀なくされました。しかし、オスマン帝国の統治構造内で、セルビア正教会が一定の自治を認められたことが、セルビア文化とアイデンティティの保存に一役買いました。
この時期、セルビア正教会はセルビア人コミュニティの精神的支柱として機能し、オスマン帝国によるイスラム化政策に対抗する形でセルビアの伝統と文化を保持し続ける重要な役割を果たしました。また、教会は教育の中心地ともなり、言語、歴史、そして宗教の教育を通じてセルビアの民族意識の維持に寄与しています。
経済面では、セルビアはオスマン帝国の重要な資源供給地となり、農業だけでなく鉱業も発展しましたが、その多くが帝国の需要を満たすために利用されました。
このように、16世紀のセルビアは、外部からの圧力と内部からの抵抗が交錯する複雑な時期といえ、セルビア人は自らのアイデンティティを守りながら生き延びるためにさまざまな戦略を採用していたのです。
14世紀以降、セルビア人が多数入植していたハンガリー王国領も、オスマン帝国の版図に組み込まれる。この占領はモハーチの戦いでのオスマン帝国の勝利によって実現し、ハンガリーはオスマン帝国の一部として統治されることとなった。この支配はハンガリーの政治、経済、文化に大きな影響を与え、オスマン帝国の影響力が中央ヨーロッパにまで及ぶ結果となった。
18世紀のセルビアは、オスマン帝国の支配が弱まり始めた時代であり、この変動はセルビアに新たな動きをもたらしました。この期間中、セルビアはいくつかの蜂起を経験し、特にコラシンの戦いはセルビア人の抵抗の象徴となりました。セルビア人はオスマン帝国の圧制からの自由を求めて戦い、その結果、一部の地域で自主統治の形態が見られるようになりました。
この時期、セルビア正教会は引き続き重要な役割を担い、セルビアの文化とアイデンティティの維持に努めました。修道院や教会は文化的な活動の中心となり、教育や宗教的な指導を通じてセルビアのアイデンティティを強化ています。同時にオスマン帝国のイスラム化政策に対抗する重要な拠点となり、セルビア人の精神的な支えであり続けたのです。
経済的には、農業と鉱業で徐々に自立を図り、地域内での交易も活発化しましたが、依然としてオスマン帝国の強い影響下にあり、経済活動には制約が多く見られました。
このように、18世紀のセルビアは、オスマン帝国の支配から逐次自立を目指し、文化的、経済的、そして政治的な独自の道を模索する複雑な時期であり、セルビア人は自らのアイデンティティを守りながら、自由と自主性を求める戦いを続けたのです。
19世紀にようやくある程度自治を回復し(セルビア公国の成立)、露土戦争(ロシア・トルコ戦争)への参戦で、ロシア帝国勢力として戦勝国となったことで、王国として復活を遂げています。20世紀にはセルビア人民族主義者のオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)により、セルビアはオーストリアから宣戦布告を受け、第一次世界大戦に突入。被害は出ましたが、結果的に戦勝国となり、戦後広大な連邦国家ユーゴスラビア王国の中核を成すこととなります。
19世紀のセルビアは、独立と国家建設が動き出した極めて重要な時期でした。この世紀の初頭、1804年に始まった第一次セルビア蜂起を皮切りに、オスマン帝国からの自立を目指す闘争が本格化しました。この蜂起はカラジョルジェ・ペトロヴィッチによって指導され、1815年の第二次セルビア蜂起が成功を収め、1829年のアドリアノープル条約によりセルビアの自治が国際的に承認されたのです。
この時代、セルビアは急速な社会的、経済的発展を遂げ、多くの教育施設が設立され、文化的な復興が進みました。また、ミロシュ・オブレノヴィッチなどの有能な指導者のもと、「近代的な国家機構の構築」が進められ、1878年のベルリン会議によってセルビアの完全独立が国際的に認められると、バルカン半島情勢において重要な役割を果たすようになります。
セルビア正教会もこの時期に「国民統合の象徴」として機能し、セルビアの文化的アイデンティティと民族意識の強化に寄与しました。
このように、19世紀のセルビアは、オスマン帝国の支配からの解放を果たし、自立した近代国家としての基礎を築いた時代であり、セルビア人は自らのアイデンティティを守りつつ、政治的、文化的、経済的に自国を発展させたのです。
セルビア人が蜂起を起こし、オスマン帝国から制限付きで自治権を獲得する。この自治権は、セルビアが政治的に一定の自立を確保し、国内の管理を自ら行う基盤を築くきっかけとなった。
第二次セルビア蜂起を経て、豚商人のミロシュ・オブレノヴィッチがセルビア公の地位を与えられ、セルビア公国が成立した。ミロシュのリーダーシップ下で、セルビアは内政の整備と経済の発展に注力した。
オスマン帝国の主権下ではあるものの完全自治が認められた。この自立は、セルビアの国際的地位を形成する大きな一歩となり、後の完全独立への道を築いた。
セルビアは1838年に初の憲法を制定し、ヨーロッパの憲法国家としての枠組みを確立した。
外務大臣のイリア・ガラシャニンにより、将来的なオスマン帝国の崩壊を想定し、他国の介入を受けない独立国家の建設計画が書かれた秘密文書「ナチェルターニェ」が作成される。「大セルビア主義」の思想に基づいたものだった。
セルビア公ミハイロが、セルビア領内にとどまっていたオスマン軍の部隊を撤退させる。この撤退はセルビアの事実上の完全独立を象徴し、ミハイロの外交戦略の成果として広く称賛された。オスマン帝国からの軍事的プレゼンスの終結により、セルビアはその後の発展と国家建設に専念できる環境を得た。この出来事はセルビアの国家主権を確固たるものとし、地域の安定化にも寄与した。
ベオグラード郊外にてセルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチ3世が暗殺される。彼はオスマン帝国に対抗し、バルカン連邦構想(バルカン諸国の政治的統一)を思い描いていた。
露土戦争に参戦し戦勝国となり、戦後に締結されたベルリン条約(サン・ステファノ条約を修正したもの)により、セルビアは国際的に独立国として認められた。82年にはオーストリア・ハンガリー帝国に承認され王制に移行し、セルビア王国が成立した。以後近代国家として発展を遂げていくことになる。
東ルメリ自治州の帰属をめぐりブルガリアと対立し、戦争に発展。結果はセルビアの敗北となり86年のブカレスト条約で講和。この戦争はバルカン半島の緊張を高め、地域の勢力図に大きな影響を与えた。また、戦争の結果、セルビアは軍事と外交政策の見直しを余儀なくされ、国内の政治的安定にも影響を及ぼした。さらにこの敗北はセルビアの国民意識と軍事改革に対する意識を強化する契機ともなった。
20世紀前半のセルビアは、大きな変革と試練の時期でした。この時代、セルビアはまず1912年から1913年のバルカン戦争に参加し、その後すぐに始まる第一次世界大戦で重要な役割を果たしました。第一次世界大戦中、セルビアはオーストリア=ハンガリー帝国からの攻撃を受け、壊滅的な損害を被りましたが、戦争の終結に向けて重要な連合国の一員として勝利に貢献しています。
戦争後の1918年には、ユーゴスラビア王国の中核となり、クロアチア、スロベニアなどと共に新たな多民族国家を形成。中でもセルビアは政治的、経済的に支配的な地位を占めることとなり、首都ベオグラードはユーゴスラビアの政治の中心地となりました。
しかし、多民族国家の構築は多くの問題を伴い、特に民族間の緊張が高まることがありました。経済の不均衡や政治的な不安定さも相まって、セルビア人と他民族との間に対立が生じるようになるのです。これらの問題は、後のユーゴスラビアの歴史に大きな影響を与えることとなります。
このように、20世紀前半のセルビアは、二度の大戦と国家再編の試練を経て、新たな国家ユーゴスラビアの中心として、政治的および文化的に重要な役割を果たした時代です。セルビア人は自らのアイデンティティを守りながら、新しい国家構想の中でさまざまな課題に対処していったのです。
陸軍士官によるクーデターでセルビア国王夫妻が殺害される。王位がオブレノヴィッチ家からカラジョルジェヴィッチ家から移ったことで、親ロシアの政策に転換した。
セルビアとオーストリア=ハンガリー帝国との間で「豚戦争」と呼ばれる関税戦争が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアの豚肉輸出を制限したことで、セルビアは経済的に打撃を受けたが、この危機を乗り越えるためにセルビアは他の市場を開拓し、経済的自立を強化した。また、この対立はセルビアとロシアの関係を強化するきっかけとなり、バルカン半島における緊張を一層高めた。
オスマン帝国のテッサロニキで「青年トルコ革命」と呼ばれる立憲革命が起こる。この革命の混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナを完全に併合した。このことでセルビアとオーストリアの関係はいっそう悪化した。
オスマン帝国の衰退に乗じ、セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャ王国はバルカン同盟を結成し、オスマン帝国に宣戦布告。第一次バルカン戦争が開始された。バルカン連合軍が勝利し、ヨーロッパからオスマン勢力をほぼ一掃した。
第一次バルカン戦争後、マケドニアの領有をめぐりブルガリアとセルビア・オスマン帝国・ギリシャなどバルカン諸国の利害が対立し、ブルガリアvs対ブルガリア連合の戦争に発展した。対ブルガリア連合の勝利で終結。
セルビア人青年によりオーストリアの大公夫妻が射殺される事件が発生(サラエボ事件)。この事件がきっかけでセルビアはオーストリアから宣戦布告を受け、第一次世界大戦が開始された。
第一次世界大戦で崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナは分離。戦勝国となったセルビア王国主導のもと、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、モンテネグロが統合され、多民族国家ユーゴスラビア王国が成立した。
ユーゴスラビア王国の政府はセルビア人によって運営され、セルビア人優遇政策が続いたため、政府と非セルビア人勢力との対立という問題が状態化しました。
ユーゴスラビア王国の君主として中央集権化を進めたアレクサンダル1世がマルセイユで暗殺される。後継にペータル2世が即位したことで、政府は非セルビア人に対して譲歩するようになる。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し、連合国と枢軸国の陣営に分かれた第二次世界大戦が勃発。ユーゴスラビアでは、親ドイツ路線の政府に反対する国軍が、イギリスの支援を受けてクーデターを起こし政権交代が起きる。
親連合国路線に転換したユーゴスラビア王国は、ナチスドイツとその同盟国軍による侵攻を受ける。ドイツ軍による電撃戦の前になすすべもなく、10日あまり(4月6〜17日)で全土を制圧された。政府は国外に亡命し、残った領土は枢軸国が分割統治した。
枢軸国に抵抗を続けていた共産主義勢力のパルチザンが、ユーゴスラビア民主連邦の建国を宣言。戦後の46年にユーゴスラビア連邦人民共和国として国家として正式にスタート。(63年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称)
ユーゴスラビア民主連邦が対独抵抗運動で勝利をおさめ、枢軸国の支配からベオグラードを解放する。この解放は、パルチザン勢力とソビエト赤軍の共同作戦により実現した。ベオグラードの解放は、ユーゴスラビアにおけるナチス支配の終焉を象徴し、第二次世界大戦後のユーゴスラビア再建とティトー指導下での社会主義国家の確立への重要な一歩となった。この勝利はまた、ユーゴスラビアの国際的な地位を強化し、戦後の東欧政治における重要な転換点となった。
ナチスドイツ、日本の降伏で第二次世界大戦は終結。戦後、ナチスからユーゴスラビアを奪還したユーゴスラビア民主連邦は、チトーを首班とするユーゴスラビア連邦人民共和国として正式な国家となった。
セルビアはユーゴスラビアにおける主導権争いにおいてクロアチアとことごとく対立し、20世紀末には連邦からの離脱を宣言したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに武力侵攻を行い、ユーゴスラビア紛争を引き起こしました。ユーゴスラビアの民族対立はもはや修復不可能な域に達し、最終的にユーゴスラビア王国は崩壊してしまいます。
21世紀になると、連邦崩壊後に残ったセルビアとモンテネグロの2国で旧ユーゴスラビア連邦の国連議決権を継承。連合国「セルビア・モンテネグロ」を発足させるも、この体制も長くは続きませんでした。もともとモンテネグロも、国家連合の運営に非協力的であり、発足からわずか3年で連合から離脱。残ったセルビアはベオグラードを首都とする共和制国家セルビア共和国としての歩みを新たにすることとなり、現在にいたっているというわけです。
20世紀後半のセルビアは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部として、数多くの政治的変革を経験しました。この時期、セルビアはチトー政権下でのユーゴスラビアの発展を体験しましたが、チトーの死後、連邦内の民族対立が表面化。1980年代に入ると、経済低迷と政治的不安定が国内を揺るがし、セルビア民族主義が急速に台頭しました。
1990年代には、スロボダン・ミロシェヴィッチがセルビアの指導者として登場し、彼の政策が周辺地域との激しい対立を引き起こしました。この対立は、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナでの戦争(ユーゴスラビア紛争)に発展し、セルビアは国際社会からの強い非難を受けることとなります。特に、ボスニア戦争やコソボ紛争はセルビアの国際的な地位に大きな打撃を与え、経済制裁や政治的孤立を深める結果に繋がってしまうのです。
このように、20世紀後半のセルビアは、政治的、経済的な試練と激しい民族間の対立の時代でした。ユーゴスラビアの崩壊とそれに伴う地域の紛争は、セルビア社会に深刻な影響を与え、国内外でのセルビアの立場を複雑なものにしています。しかし、この時代を通じてセルビア人は問題に対処しながら、自国のアイデンティティと未来の方向性を模索し続けているのです。
戦後からユーゴスラビアを牽引してきたチトーが死去。彼は戦中の反ファシズム闘争の英雄として、ユーゴスラビアを率いる象徴的人物であったことから、ユーゴスラビア諸民族の結束を維持する役割を果たした。そのため彼の死により民族主義が再燃し、アルバニア人とセルビア人の間で緊張が高まった。
スロベニアがユーゴスラビア連邦から独立を宣言。それをうけ連邦軍がスロベニアに侵攻し、十日間戦争が始まった。この戦争にスロベニアが勝利したことに端を発し、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなども次々と独立を宣言し、ユーゴスラビア内戦として泥沼化していった。
ユーゴスラビア内戦の中で、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが独立した結果、連邦で残ったセルビアとモンテネグロで、ユーゴスラビア連邦共和国を形成した。
21世紀のセルビアは、国際的な孤立からの復帰とヨーロッパ統合への歩みを進める時期として注目されています。2000年の「ブルドーザー革命」により、スロボダン・ミロシェヴィッチ政権が終焉を迎えた後、セルビアは民主化と経済改革を推進し始めました。この変化は、セルビアの政治風景において新たな始まりを象徴しており、国内外の投資を引き寄せ、経済の回復につながりました。
また、セルビアは欧州連合(EU)への加盟を目指し、2009年には加盟申請を行いましたが、2024年9月現在まだ加盟が認められていません。実現に至るには、政治的、経済的、法的な基準に適合するための数多くの改革が必要といわれています。
セルビアはEUへの統合努力の一環として、法の支配の強化、民主的なガバナンスの確立、および地域との和解に取り組んでいますが、コソボとの関係が改善しない以上、加盟は難しいといわれています。
このように、21世紀のセルビアは、過去の対立を乗り越え、国際社会における新たな位置を確立しようとしています。政治的な安定化を図りながら、経済的な発展とヨーロッパとの一層の統合を目指して、多くの挑戦に立ち向かっているのです。
新憲法を公布し、ユーゴスラビア連邦共和国が、国民投票によりいつでも独立することが認められる緩やかな国家連合に移行。国名もセルビア・モンテネグロに改称した。
もともと独立心が強かったモンテネグロが国民投票を行い賛成多数で独立を決定。残ったセルビアがセルビア・モンテネグロの継承国家であると宣言し現在にいたる。
セルビアの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動に彩られています。古代にはローマ帝国の一部として栄え、7世紀には南スラヴ人が移住してセルビア公国が成立しました。9世紀にはキリスト教を受容し、12世紀にはネマニッチ朝がセルビア王国を建設し最盛期を迎えました。オスマン帝国支配下では約500年続き、その後19世紀には独立を達成。第一次世界大戦後はユーゴスラビア王国の一部となり、第二次世界大戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国となりました。1990年代のユーゴスラビア解体に伴い、紛争を経てセルビア共和国として再出発し、現在はEU加盟を目指しながら経済と民主主義の発展を続けています。
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