
セルビアの国旗
セルビアの国土
セルビア(正式名称:セルビア共和国)は、南東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土は北海道と同様の面積を有しています。国土の大半は温帯に属しますが、南西部は亜熱帯、大陸性の気候帯に属します。首都はヨーロッパでも最古の都市として知られるベオグラードです。
この国の主力産業は、自動車や機械類、発電、穀物・果物・家畜などの農業関連でありますが、セルビアの成長産業として注目されているのが情報通信技術(ICT)産業です。
セルビアは戦後しばらくはユーゴスラヴィア連邦の盟主として立ちまわりますが、その指導者ティトーが1980年に死去したのを機に連邦の解体が開始。連邦維持の立場のセルビアと、連邦離脱を目指す国々による内戦に発展しました。内戦を経て、連邦に残ったモンテネグロと新ユーゴスラヴィア連邦を構成するも、コソヴォ問題から対立し2006年にモンテネグロが分離。セルビアがユーゴスラビア連邦の継承国を宣言し現在にいたる、というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなセルビアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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「国家」としてのセルビアの歴史は中世から始まりまります。7世紀初頭頃からセルビア南西部のラシュカと呼ばれる地域にセルビア人が定住を始め、12世紀頃までは部族同士の内部抗争が続いていました。12世紀末にようやく東ローマ帝国の支配を脱し、セルビア人による統一国家ネマーニャ朝セルビア王国が成立し、14世紀までにバルカン半島最大の国に成長しました。しかし14世紀末にオスマン帝国との抗争に敗れ、以後400年以上にわたりその支配を受けることになります。
7世紀初めに現在のセルビアの地域に、6つの部族が分かれて居住を始める。
ステファン・ネマニャがセルビアの部族を統一。ビザンティン帝国の支配から抜け出し、ネマーニャ朝セルビア王国を建設する。以後この王朝がセルビアを200年にわたり支配する。
ステファン・ネマニャの息子ステファン・ネマニッチが教皇ホノリウス3世に戴冠され、公式に認められた初のセルビア王となる。これによりセルビアは公式に王国として認められた。
14世紀前半にセルビアは政治的・経済的に最盛期を迎えた。ドゥシャン法典が定められ、領土拡大によりその国力はビザンティン帝国に肩を並べた。しかし14世紀後半には新興のオスマン帝国との抗争に敗れ、以後オスマン帝国の属国として400年以上を過ごすことになる。しかしその中でもセルビア正教会や民族叙事詩を通して、セルビア人としてのアイデンティティを維持していた。
セルビア皇帝ステファン・ドゥシャンにより、それまでのセルビア慣習法を集大成したドゥシャン法典が制定される。東ローマ帝国の法典が参考にされた。
オスマン帝国の侵攻を受けネマニッチ朝が断絶する。代わってセルビアの統治者となったラザル・フレベリャノヴィチは、オスマン帝国へ臣従する道を選んだ。
バルカン半島中部のコソボにて、セルビア王国とオスマン帝国の対戦が行われる。セルビアはこの戦いに敗れ、以後オスマン帝国に服従を強いられるようになる。
イスラム勢力のオスマン帝国が、バルカン半島における覇権を確立したことは、ヨーロッパキリスト教世界にとって看過できない事態でした。1396年にはニコポリスの戦いでヨーロッパ連合軍とオスマン帝国軍が戦いましたが、オスマン帝国はこれに圧勝し、バルカン半島支配を決定的なものにしています。
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14世紀以降、セルビア人が多数入植していたハンガリー王国領も、オスマン帝国の版図に組み込まれる
19世紀にようやくある程度自治を回復し(セルビア公国の成立)、露土戦争(ロシア・トルコ戦争)への参戦で、ロシア帝国勢力として戦勝国となったことで、王国として復活を遂げています。20世紀にはセルビア人民族主義者のオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)により、セルビアはオーストリアから宣戦布告を受け、第一次世界大戦に突入。被害は出ましたが、結果的に戦勝国となり、戦後広大な連邦国家ユーゴスラビア王国の中核を成すこととなります。
セルビア人が蜂起を起こし、オスマン帝国から制限付きで自治権を獲得する
第二次セルビア蜂起を経て、豚商人のミロシュ・オブレノヴィッチがセルビア公の地位を与えられ、セルビア公国が成立した。
オスマン帝国の主権下ではあるものの完全自治が認められた。
外務大臣のイリア・ガラシャニンにより、将来的なオスマン帝国の崩壊を想定し、他国の介入を受けない独立国家の建設計画が書かれた秘密文書「ナチェルターニェ」が作成される。「大セルビア主義」の思想に基づいたものだった。
セルビア公ミハイロが、セルビア領内にとどまっていたオスマン軍の部隊を撤退させる。
ベオグラード郊外にてセルビア公ミハイロ・オブレノヴィッチ3世が暗殺される。彼はオスマン帝国に対抗し、バルカン連邦構想(バルカン諸国の政治的統一)を思い描いていた。
露土戦争に参戦し戦勝国となり、戦後に締結されたベルリン条約(サン・ステファノ条約を修正したもの)により、セルビアは国際的に独立国として認められた。82年にはオーストリア・ハンガリー帝国に承認され王制に移行し、セルビア王国が成立した。以後近代国家として発展を遂げていくことになる。
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東ルメリ自治州の帰属をめぐりブルガリアと対立し、戦争に発展。結果はセルビアの敗北となり86年のブカレスト条約で講和。
陸軍士官によるクーデターでセルビア国王夫妻が殺害される。王位がオブレノヴィッチ家からカラジョルジェヴィッチ家から移ったことで、親ロシアの政策に転換した。
セルビアとオーストリア=ハンガリー帝国との間で「豚戦争」と呼ばれる関税戦争が起こる。両国の関係にますます亀裂が入る。
オスマン帝国のテッサロニキで「青年トルコ革命」と呼ばれる立憲革命が起こる。この革命の混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナを完全に併合した。このことでセルビアとオーストリアの関係はいっそう悪化した。
オスマン帝国の衰退に乗じ、セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャ王国はバルカン同盟を結成し、オスマン帝国に宣戦布告。第一次バルカン戦争が開始された。バルカン連合軍が勝利し、ヨーロッパからオスマン勢力をほぼ一掃した。
第一次バルカン戦争後、マケドニアの領有をめぐりブルガリアとセルビア・オスマン帝国・ギリシャなどバルカン諸国の利害が対立し、ブルガリアvs対ブルガリア連合の戦争に発展した。対ブルガリア連合の勝利で終結。
セルビア人青年によりオーストリアの大公夫妻が射殺される事件が発生(サラエボ事件)。この事件がきっかけでセルビアはオーストリアから宣戦布告を受け、第一次世界大戦が開始された。
第一次世界大戦で崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナは分離。戦勝国となったセルビア王国主導のもと、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、モンテネグロが統合され、多民族国家ユーゴスラビア王国が成立した。
ユーゴスラビア王国の政府はセルビア人によって運営され、セルビア人優遇政策が続いたため、政府と非セルビア人勢力との対立という問題が状態化しました。
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ユーゴスラビア王国の君主として中央集権化を進めたアレクサンダル1世がマルセイユで暗殺される。後継にペータル2世が即位したことで、政府は非セルビア人に対して譲歩するようになる。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し、連合国と枢軸国の陣営に分かれた第二次世界大戦が勃発。ユーゴスラビアでは、親ドイツ路線の政府に反対する国軍が、イギリスの支援を受けてクーデターを起こし政権交代が起きる。
親連合国路線に転換したユーゴスラビア王国は、ナチスドイツとその同盟国軍による侵攻を受ける。ドイツ軍による電撃戦の前になすすべもなく、10日あまり(4月6〜17日)で全土を制圧された。政府は国外に亡命し、残った領土は枢軸国が分割統治した。
枢軸国に抵抗を続けていた共産主義勢力のパルチザンが、ユーゴスラビア民主連邦の建国を宣言。戦後の46年にユーゴスラビア連邦人民共和国として国家として正式にスタート。(63年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称)
ユーゴスラビア民主連邦が対独抵抗運動で勝利をおさめ、枢軸国の支配からベオグラードを解放する。
ナチスドイツ、日本の降伏で第二次世界大戦は終結。戦後、ナチスからユーゴスラビアを奪還したユーゴスラビア民主連邦は、チトーを首班とするユーゴスラビア連邦人民共和国として正式な国家となった。
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セルビアはユーゴスラビアにおける主導権争いにおいてクロアチアとことごとく対立し、20世紀末には連邦からの離脱を宣言したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに武力侵攻を行い、ユーゴスラビア紛争を引き起こしました。ユーゴスラビアの民族対立はもはや修復不可能な域に達し、最終的にユーゴスラビア王国は崩壊してしまいます。
21世紀になると、連邦崩壊後に残ったセルビアとモンテネグロの2国で旧ユーゴスラビア連邦の国連議決権を継承。連合国「セルビア・モンテネグロ」を発足させるも、この体制も長くは続きませんでした。もともとモンテネグロも、国家連合の運営に非協力的であり、発足からわずか3年で連合から離脱。残ったセルビアはベオグラードを首都とする共和制国家セルビア共和国としての歩みを新たにすることとなり、現在にいたっているというわけです。
戦後世界は冷戦に突入し、ユーゴスラビアは当初親ソ路線をとっていたが、チトーとスターリンの不和により決別。チトー主義と呼ばれる政策の下で、西側諸国とも協調姿勢をとりつつ経済成長を続けていった。
戦後からユーゴスラビアを牽引してきたチトーが死去。彼は戦中の反ファシズム闘争の英雄として、ユーゴスラビアを率いる象徴的人物であったことから、ユーゴスラビア諸民族の結束を維持する役割を果たした。そのため彼の死により民族主義が再燃し、アルバニア人とセルビア人の間で緊張が高まった。
スロベニアがユーゴスラビア連邦から独立を宣言。それをうけ連邦軍がスロベニアに侵攻し、十日間戦争が始まった。この戦争にスロベニアが勝利したことに端を発し、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなども次々と独立を宣言し、ユーゴスラビア内戦として泥沼化していった。
ユーゴスラビア内戦の中で、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが独立した結果、連邦で残ったセルビアとモンテネグロで、ユーゴスラビア連邦共和国を形成した。
新憲法を公布し、ユーゴスラビア連邦共和国が、国民投票によりいつでも独立することが認められる緩やかな国家連合に移行。国名もセルビア・モンテネグロに改称した。
もともと独立心が強かったモンテネグロが国民投票を行い賛成多数で独立を決定。残ったセルビアがセルビア・モンテネグロの継承国家であると宣言し現在にいたる。
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