ドイツにおける産業革命が遅れた理由

第二次産業革命でドイツの重工業を牽引したルール地方に保管されている蒸気機関

 

ドイツといえば、現代では「工業大国」としてのイメージがすっかり定着していますよね。でもじつは、そんなドイツも産業革命のスタートはかなり遅かったんです。イギリスでは18世紀後半にすでに蒸気機関が動いていたのに、ドイツが本格的に工業化へと向かったのは、なんと19世紀後半に入ってから。では、なぜドイツは出遅れたのか?そして、どうやって追い上げたのか?今回はその流れを「いつ」「なぜ遅れたか」「どこで進んだか」の3つの視点から解説します。

 

 

産業革命が始まった時期

まずはドイツで産業革命が始まった“時期”を確認しておきましょう。

 

本格化は1840年代以降

ドイツで産業革命が本格的に始まったのは1840年代以降とされています。とくに繊維産業鉱業から始まり、次第に重工業・化学工業・鉄鋼業へと広がっていきました。ただし、当時のドイツはまだ「統一国家」ではなく、プロイセンやバイエルンなどの地域国家に分かれていたため、発展にもばらつきがありました。

 

急成長は1871年以降

1871年のドイツ帝国成立をきっかけに、鉄道整備や関税同盟の効果が一気に現れ、重工業が飛躍的に成長します。この時期からライン=ルール地方などで大規模な工場や製鉄所が立ち並び、「遅れてきた工業大国」がついに本領を発揮しはじめたんですね。

 

産業革命が遅れた理由

では、なぜドイツはイギリスやフランスよりも遅れてしまったのでしょうか?その原因を探ってみましょう。

 

国家が分裂していた

19世紀前半のドイツは神聖ローマ帝国の崩壊後、多数の小国に分裂していました。このバラバラの体制では、関税・通貨・道路などの制度が統一されず、産業の発展が足踏み状態に。1834年の関税同盟(ツォルフェライン)の結成が、その状態をようやく改善するきっかけになります。

 

農業中心の経済構造

ドイツは大土地所有制が強く残っていたため、19世紀初頭はまだまだ農業社会。また、人口の多くが農村に住んでいたことで、工場労働者となる都市労働者層が薄かったのも、初動が遅れた一因といえます。

 

市民階級の発言力が弱かった

イギリスでは資本家やブルジョワ階級が自由に投資を行い、産業化を進めていきましたが、ドイツではそうした市民層の力が弱く、封建的な貴族層が大きな影響力を持っていたため、経済の自由度が低かったんです。

 

追い上げと特徴的な発展

とはいえ、ドイツの産業革命は「遅れてきた」からこそ強かった──そんな面もあるんです。

 

国家主導による工業化

ドイツでは、とくにプロイセン政府が産業の発展を積極的に支援しました。鉄道や銀行制度の整備、技術学校の設立など、国家主導の産業政策がうまく機能したことで、遅れを一気に取り戻していきます。

 

重化学工業の先進国に

19世紀後半には、イギリスをもしのぐ化学・機械・電気産業が急成長。とくにバイエル、シーメンス、クルップといった企業は、世界をリードする存在になっていきました。つまり、ドイツは「遅れて始まり、一気にトップ集団に食い込んだ」国だったわけです。

 

ドイツの産業革命は、たしかに出遅れました。でもそれは、国家の分裂や社会構造が原因だっただけで、ひとたび統一と制度改革が進めば、爆発的な伸びを見せたんです。遅れてきたぶん、勢いは本物だったわけですね。