フランス革命は、絶対王政時代の常識を打ち破り、近代社会移行の転機となった市民革命でした。現代ヨーロッパの基礎は、フランス革命に連なる、市民社会や国民国家の台頭で完成したといってもよく、ヨーロッパに与えた影響は計り知れません。
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フランス革命では絶対王政の打破が目指されましたが、他のヨーロッパ諸国では当たり前のように王政が続いていました。そのため周辺各国は、革命の影響が自国に波及することを恐れ、内政干渉により、フランス国内の革命勢力の突き崩しを図るようになります。
その象徴的な出来事が、フランス王妃マリ=アントワネットの兄、レオポルト2世がオーストリアとプロイセン共同で出したピルニッツ宣言です。
ピルニッツ宣言は、フランスにブルボン王家の身の安全と王政復古を要求する内容でしたが、これを最後通牒と受け取ったフランスは、オーストリア・プロイセン軍に宣戦布告し、フランス革命戦争の口火を切るのです。
フランス革命戦争が起こると、過激派のジャコバン派が台頭し、幽閉されていたルイ16世も処刑されるなど、フランスの革命勢力はどんどん急進化していきました。
ヨーロッパ諸国は増長するフランス革命勢力を打倒せんと第一回対仏大同盟を結成し、フランスvs全ヨーロッパ王政諸国という、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争に発展していきます。
そしてこの戦争は途中からフランスの国土防衛戦争から、対外侵略戦争へと変質し、革命の申し子ナポレオンの台頭、士気の高い国民軍の誕生などで勢いを得たフランスは、一時はヨーロッパ大陸のほぼ全域を支配下に置いてしまうのです。
全ヨーロッパを相手取った戦いにはやはり限界があり、最終的にはフランスの敗北となりました。戦後、ヨーロッパ各国の領土などを調整するため、1814年よりウィーン会議が開かれ、フランス革命前のような各国の勢力均衡を保とうと調整したウィーン体制が構築されます。つまりは絶対王政時代のヨーロッパ秩序に戻そうとしたのです。
ウィーン体制の崩壊に繋がったフランスの二月革命
しかしフランス革命の自由・平等を柱とした理念は、ナポレオンが征服した国々にすでに根強く浸透しており、自由主義と民族主義を抑圧する反動的なウィーン体制への反発は年々高まっていきます。
その結果、
などの自由主義運動が次々と起こり、1848年にはフランスの二月革命をきっかけとして、旧態依然としたウィーン体制は崩壊に追いやられました。これでいよいよヨーロッパは封建社会から脱皮し、出自や身分にとらわれない、自由で平等な市民社会へと舵を切っていくのです。
このようにフランス革命を起点として起こった様々な出来事が、現代ヨーロッパの基礎が築いたと思えば、この市民革命がいかにヨーロッパに大きな影響を与えたか実感できるかと思います。
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