古代ギリシアと古代ローマとの違いとは?

古代ギリシアと古代ローマの比較

古代ギリシャはポリスごとの独立性が強く、哲学や芸術で知られる精神文化中心の社会であった。一方、古代ローマは法や軍事に優れ、統一的な帝国体制を築いた実務志向の文明である。本ページでは、このあたりの事情や背景について詳しく掘り下げていく。

古代ギリシアと古代ローマを比較!その違いを政治・文化・宗教・軍制から紐解く

このページでは、古代ローマと古代ギリシアの政治・文化的および社会的な違いに焦点を当てています。古代ローマがいかにして小さなポリスから地中海全域を支配する大帝国へと成長したか、そして古代ギリシアがどのようにして多様なポリスが共存し、文化圏として発展したかを紹介した上で、政治、芸術、教育、宗教の各側面から両文明の特色を比較し、その違いを明らかにしていきます。



古代ギリシアとは

古代ギリシアは、現在のギリシャ共和国にあたる地域を中心に、バルカン半島やエーゲ海の島々に多数の自治的な都市国家、ポリスが存在した文化圏です。これらの都市国家は、アテナイやスパルタなど、独自の政治体制や文化を持ち、しばしば互いに競合しました。


古代ギリシアの最大の貢献は、哲学、科学、芸術、民主政などの分野における基礎を築き、ヨーロッパ文明の源流を成したことでしょう。プラトンやアリストテレスなどの哲学者、ヒポクラテスの医学、叙事詩や悲喜劇などの文学は、ヨーロッパ文化の形成に不可欠な要素であり、その影響は今日も世界中で感じられます。


古代ギリシアの範囲を示した1903年の地図

古代ギリシアの範囲を示した地図
古代ギリシア文化圏は、バルカン半島南部からエーゲ海諸島、小アジア西岸、さらにシチリア島や南イタリア沿岸まで広がっていた

出典:Dietrich Reimer / Public domainより


古代ローマとは

古代ローマとは、イタリア半島中部に位置した小さなポリスから、地中海世界全域を支配下にいれる大帝国にまで成長した国家の総称です。その歴史は、ローマ建国の前8世紀から、ゲルマン人により西ローマ帝国が滅ぼされる後5世紀まで続きました。


古代ローマの影響力は、法律、政治、建築、文化など、多岐に渡り、この統一国家の法体系や共和政の概念は、今日のヨーロッパの法制度や政治思想に大きな影響を与えています。また、円形闘技場や水道橋などの建築技術は、その後の建築様式に影響を与え、ローマン・コンクリートの使用は建築の革命とも言える技術革新でした。さらに、ラテン語は多くのヨーロッパ言語の基礎となり、文学や哲学の発展にも寄与するなど、古代ギリシアが「ヨーロッパ文明の源流」ならば、「ヨーロッパ文明の揺籃」といえるのが古代ローマです。


古代ローマの最大版図(トラヤヌス帝期・117年頃)

トラヤヌス帝の治世下で古代ローマ帝国は最大版図を達成し、ブリテン島からメソポタミアまで広がる地中海世界の覇者となった。


古代ギリシアと古代ローマの違い

古代ギリシア 古代ローマ
時代 紀元前8世紀~紀元前4世紀頃 紀元前8世紀~西暦5世紀
地理 バルカン半島南部・エーゲ海沿岸 イタリア半島・地中海全域へ拡大
政治体制 都市国家(ポリス)制、例:アテネ、スパルタ 王政→共和政→帝政
市民の権利 自由市民に政治参加権(女性・奴隷は除外) 共和政では限られた市民が参政、帝政で皇帝に集中
文化・思想 哲学・演劇・彫刻・数学が発展(ソクラテス、プラトンなど) 実用的文化・土木技術が発展(法、建築、道路、軍事)
宗教 オリュンポスの神々を信仰(多神教) ギリシア神話を継承しつつ独自に展開(のちにキリスト教へ)
軍事 重装歩兵・ポリス防衛重視(例:マラトンの戦い) 常備軍と属州支配を基礎にした拡張主義
言語 ギリシア語 ラテン語
建築 神殿建築(ドーリア式、イオニア式など) アーチ・ドーム・コンクリートによる大規模建築
代表的遺産 パルテノン神殿、デルフォイの神託所 コロッセオ、水道橋、パンテオン


概念の違い

まず大きな違いとして古代ローマは「国家」だったのに対し、古代ギリシアは「文明圏」であったという点です。よく誤解されがちですが、古代ギリシアは、ローマのように周囲の自治体や民族を吸収し、1つの統一国家を樹立したわけではありません。


古代ギリシア世界一帯(バルカン半島やエーゲ海の島々など)には、アテナイスパルタといったポリス(都市国家)が1000以上も自治独立して並存しており、政策方針はポリスの数だけ存在していました。


「古代ギリシア」は「国家」ではなく、同じ言語(古代ギリシア語)や宗教(ギリシア神話)を共有する「文化圏」であると理解しましょう。


統合を拒否した古代ギリシア

ギリシャ諸ポリスは、時に外部の敵に対し共闘すること(例:ペルシア戦争)もありましたが、利害の行き違いで敵対すること(例:ペロポネソス戦争)はそれ以上に多く、基本バラバラでした。同盟は組んでも統合は求めなかったのです。


そして古代ギリシア内での覇権争いに終始したことで段々と疲弊していき、やがては統率力に勝るマケドニアやローマといった強大化した単一国家に支配されてしまうことになるのです。また古代ギリシアポリスがローマのように統合に向かわなかったのは、各ポリスが共同体内部での内政問題でいっぱいいっぱいで、侵略や併合に割く余裕がなかったともいえます。


ローマは前2世紀にマケドニア王国を滅ぼして古代ギリシア世界を征服しますが、優れたギリシャ文化を手厚く保護し継承しました。政治的独立は失っても、文化は保たれ、ローマの勢力拡大にともないヨーロッパ文化の源流になったのです。


政治体制の違い

古代ギリシア世界の典型だったアテナイと、古代ローマの政治形態を比較すると、両者とも貴族政を打倒して民主政に実現させたという歴史は共通しています。しかし両者の民主政は同じ民主政でも性質がだいぶ異なることに留意しておく必要があります。


ローマの民主政

ローマ社会は国家の統治機関である元老院が全ての実権を握っていました。元老院議員は一応は選挙で選ばれるのですが、一部の富裕層と有力な平民が元老院の議席を独占し、一般層の意見がなかなか反映されにくい状況でした。


アテナイの民主政

アテナイでは基本的に貧富の差に関係なく、幅広い層が政治に参加することができました。これはアテナイが海洋国家として発展した為、貧民であっても漕ぎ手として重宝され、比較的平等な政治参加が可能だったからです。


アテナイにもアレオパゴス会議と呼ばれる、ローマの元老院のような国家機関はありました。しかし民主派の政治家ペリクレスがアレオパゴス会議の権限が次々と剥奪し、民会に権限を集中させたことで、ローマのように一部の有力者が権力を独占するということは防げていました。


アレオパゴスの丘(アクロポリスからの眺望)

アレオパゴス会議が開かれたアレオパゴスの丘
アレオパゴス会議は、アテネ市民の重要な案件を審議した機関で、その名は実際に会合が開かれていたアレオパゴスの丘に由来する。

出典:Jebulon / CC 0 1.0 Public Domainより


芸術面の違い

古代ギリシアの代表作といえば、ミュロン作の『ディスコボロス(円盤投げ)』が挙げられます。この彫刻は、全身をねじるようにして円盤を投げる直前の姿を捉えたもので、筋肉の張り、バランスのとれたポーズ、そして若々しく整った顔立ちなど、「理想化された肉体美」を表現しています。ギリシア芸術では、個人の現実の姿よりも、「人間とはこうあるべき」という普遍的な美しさと調和を追求する傾向が強く見られるのです。


ローマ製Discobolos像(Myron原作の複製、理想化された肉体美)

ミュロンの『ディスコボロス(円盤投げ)』
出典:MatthiasKabel (権利者) / Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unportedより


一方、古代ローマの代表作としてよく挙げられるのが、以下の『アウグストゥス像(プリマポルタのアウグストゥス)』です。初代ローマ皇帝アウグストゥスが、威厳ある姿で軍装をまとい、右手を差し出して演説しているようなポーズで描かれています。これは単なる個人像ではなく、政治的なプロパガンダとしての意味が強く、見る者に「この人が帝国の支配者である」という威厳を強調するもの。また、顔つきや服のひだ、装飾などが写実的に再現されており、「現実の人物」を忠実に表すローマ芸術の特徴がよく出ています。


プリマポルタのアウグストゥス像(ローマ皇帝アウグストゥス)

プリマポルタのアウグストゥス像
出典:Joel Bellviure (撮影者) / Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 Internationalより


つまり、ギリシアは「人間の理想像」を造形に宿し、ローマは「支配者の現実像」を写し取る――この点に、両者の芸術観の違いがはっきりと表れているのです。


教育の違い

教育においても古代ギリシア、古代ローマ両文化の間には大きな違いが見られます。古代ギリシアでは、哲学、数学、自然科学、詩文学など、多岐にわたる教育が重視され、特にアテナイでは若者に対する教育が強調されました。これに対して、古代ローマでは実用的な教育が重要視され、法律や軍事、行政など、国家運営に必要な知識と技術が教育の中心でした。


宗教の違い

宗教面でも古代ギリシアと古代ローマでは差異があります。古代ギリシアの宗教は多神教であり、様々な神々が人間の日常生活に深く関わっていました。一方、古代ローマもまた多神教でしたが、彼らは征服した地域の神々を取り入れることで、宗教的な統一を図る柔軟性を持っていました。


ただしミラノ勅令以降、古代ローマはキリスト教を公認し、その後、キリスト教は国教となっています。これにより、ローマ帝国内ではキリスト教が急速に広まり、それまでの多神教の信仰は弾圧され、影を薄めていきました。キリスト教の導入とその後の国教化は、ローマ帝国の宗教的景観を大きく変えただけでなく、政治的な構造にも影響を及ぼしました。


一方、古代ギリシアでは、宗教的な多様性が維持され続けました。各ポリスは独自の守護神を持ち、それぞれの神々に対する信仰や祭儀が行われ、ギリシャ神話における神々の物語は、文化や芸術にも深く影響を与え、古代ギリシア人の日常生活に密接に関わっていたのです。


ギリシャ神話の神々の集合画(オリンポス十二神)

ギリシャ神話の神々(オリンポス十二神)
多神教の典型であるオリンポス十二神は、古代ギリシア人が自然現象や人間の営みに神格を見出した信仰体系の中心だった。

出典:Nicolas-Andre Monsiau / public domainより


このように、古代ローマと古代ギリシアの宗教面では、多神教の維持とキリスト教への移行という大きな違いがありました。古代ローマのキリスト教化は、ヨーロッパの歴史において重要な転換点となり、後の宗教的・文化的発展に大きな影響を与えました。


軍制の違い

古代ローマと古代ギリシア(特にアテナイ)の軍制には顕著な違いがあります。


古代ローマの軍制は非常に組織的で、軍隊はローマ帝国の拡大とともに専門化し、訓練された常備軍として機能しました。ローマ軍はレギオンと呼ばれる部隊に分けられ、それぞれが重装歩兵で構成されていました。これらのレギオンは高度な戦術を使い、戦闘において柔軟な陣形の変化が可能でした。また、ローマ軍は工兵部隊も保有しており、攻城器具の建造や橋の建設など、戦闘以外でも多様な技術的任務も担っていたのも特徴です。


一方、古代ギリシアのアテナイでは、市民軍が主力で、市民は一定の年齢に達すると軍事訓練を受け、必要に応じて軍隊に参加しました。アテナイの兵士は主に重装歩兵であるホプリタイで構成されており、密集隊形のファランクス(長い槍と盾を用い、一体となって敵に対抗する戦術)を形成し戦いました。また、アテナイは強力な海軍を保有しており、海戦において優れた能力を発揮しました。


このように、古代ローマは専門化された常備軍としての性格が強く、古代ギリシアのアテナイは市民軍が中心であり、その軍事戦術や組織の構造において両者は大きく異なっていたのです。


古代アテナイの重装歩兵の戦闘場面

古代アテナイの重装歩兵(ホプリタイ)
古代アテナイの重装歩兵(ホプリタイ)が槍と盾を携え、密集隊形(ファランクス)で突撃する激戦シーンが描かれた花瓶

出典:Unknown author (Chigi Painter) / Public domainより


古代ギリシアと古代ローマの共通点

古代ローマと古代ギリシアは上記のように多くの相違点がありつつも、地中海世界を舞台にしながら、互いに影響を与え合い、後世のヨーロッパ文明の礎を築いた兄弟のような存在でもあります。ゆえに多くの共通点もありました。


政治と市民意識

ローマとギリシア、どちらの文明でも「政治=市民のもの」という考え方が根底にありました。


ギリシアではアテネの直接民主制、ローマでは共和政(レース・プブリカ)が登場します。貴族だけでなく市民層(平民)も政治に関与する仕組みが整備され、権力の集中を抑える制度が発達しました。


市民としての義務意識

軍役や裁判、政治集会への参加など、「市民として国家に奉仕すること」が当然とされていた点も共通しています。つまり国家は王や神のものではなく、自分たちが守り育てる共同体だったのです。


神話と宗教観

神様の名前は違えど、実はその“中身”はそっくり──ローマはギリシアの神々を多く受け継いでいます。


たとえば、ローマのユピテルはギリシアのゼウスヴィーナスアフロディーテに対応しています。神話の内容や性格もほぼ同じで、多神教の体系そのものが継承されていたのです。


人間に近い神々の世界

ローマもギリシアも、「全知全能の神」ではなく、欲望や嫉妬を持った人間くさい神々が大活躍するのが特徴。これはのちのキリスト教と違い、神話を通じて「人間の生き方」そのものを考えさせる文化でもありました。


芸術と建築

「古典美」と呼ばれるバランス感覚、そして力強い造形──ローマもギリシアも、共に芸術と建築を文明の核心に据えていました。


まずギリシア彫刻が生んだ理想的な人体表現は、ローマ彫刻でも引き継がれました。とくにローマはギリシア彫刻を模倣・収集するほどその芸術性に惚れ込んでいたんですね。


建築スタイルの継承

ドーリア式・イオニア式・コリント式といった柱のデザインも、ギリシア発祥ながらローマで積極的に採用され、壮大な神殿や公共建築に生かされました。しかもローマはアーチやコンクリート技術でさらに実用性を高め、芸術と工学を融合させていきます。


教育と哲学

「知ること・考えること」が生きる上で重要とされた点でも、このふたつの文明は共通しています。


たとえばソクラテス、プラトン、アリストテレス──ギリシア哲学はローマに深く影響を与え、ローマではストア派などが人気を博しました。皇帝マルクス・アウレリウスも哲学者だったという点は象徴的です。


修辞学や倫理教育の重視

ローマではキケロなどを中心に、修辞学や法学が学問の中心に据えられましたが、その土台にはギリシアの知識体系がありました。つまり、両者とも理性を磨くこと=人間の本質的な価値だと考えていたんです。


軍事と都市国家文化

どちらも“都市を単位とした国家”から始まり、軍事力を重視して領土を広げていきました。


ギリシアのポリス(都市国家)、ローマのウルブス・ローマ(ローマ市)──いずれも「一つの都市が国家として機能する」という考え方からスタートしています。そしてそこに根付いていたのが戦士としての市民像でした。


市民兵から職業軍人へ

どちらの文明でも、最初は市民兵制を基本としていましたが、戦争が長期化・拡大するにつれて常備軍・職業軍人へと移行していきます。軍事と政治が密接につながっていた点も、両者に共通する特徴といえるでしょう。


古代ギリシアとローマは、似ているようで違う。でもその根っこには、「人間の理性・政治・美・力」に価値を置く共通の精神があったんです。ふたつの文明は競い合い、影響し合いながら、今に続くヨーロッパ文化の礎を築いていったのです。