フランスで主流の宗教はキリスト教カトリックです。フランスとキリスト教の関わりは非常に古く、フランスの祖フランク王国時代にまで遡ります。フランク王国は、ローマ帝国崩壊後にキリスト教世界の守護者としての役割を果たし、フランスにおけるキリスト教勢力の基盤を固めました。そしてフランス王国成立以降に行われた、宗教統制、宗教改革が、今日のフランスの宗教事情に大きく影響を与えているのです。
フランク王国はフランスの原型となったガリア(現在のフランス、ベルギー、スイス、オランダ、ドイツの一部などを合わせた地域)を領土とする中世初期の王国で、西ローマ帝国崩壊後、西ヨーロッパ世界におけるキリスト教の発展と拡大の役目を継承しました。ローマ・カトリック教会は後ろ盾としてフランク王国の軍事力を欲し、フランク王国はカトリック教会から認められることで権威付けを図り、互いに接近したのです。フランク王国はその後、8世紀にイベリア半島から迫るイスラム勢力の侵攻を食い止め、キリスト教世界の独立を守ったことで、「キリスト教世界の守護者」として、国際社会で絶大な影響力をもつようになります。
10世紀以降になると聖職者の汚職や圧政を批判する教派が現れます。10世紀半ばに現れたカタリ派、12世紀に現れたワルドー派などがそれにあたります。これらの教派はカトリックから異端認定されて迫害を受け、南部のトゥールーズやアルビなどは追放された異端カタリ派の拠点となりました。しかし最終的にカタリ派は、教皇がカタリ派の粛清のため組織したアルビジョワ十字軍により消されてしまいました。
アナーニ事件で捕縛される教皇ボニファティウス8世
14世紀初頭、司教任命権をめぐりフランス国王とローマ教皇が対立。そんな中、フィリップ4世がローマの南東約60kmのアナーニに部下を派遣し、教皇を軟禁・暴行された末憤死するという事件(アナーニ事件)が起きました。さらに教皇クレメンス5世の時に、教皇庁がローマからフランスのアヴィニョンに移されるアヴィニョン捕囚が、その後フランスとイタリアに教皇が並立して存在する教会大分裂が発生。アナーニ事件、アヴィニョン捕囚、教会大分裂と立て続けに起こった事件は教皇の権威を大いに失墜させ、のちの宗教改革の勃発を準備したのです。
16世紀に入り西ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れ、フランスではプロテスタントの中でもユグノーと呼ばれるカルバン派が勢力が拡大し、宗教対立が激しくなっていきます。王室はユグノーを異端として弾圧しますが、対立は激化するばかりで大規模な国内紛争が勃発。そんな中数千人のユグノーが虐殺されるサン・バルテルミの虐殺事件が発生すると、宗派対立は収拾がつかないほどに激化し、国王アンリ3世が暗殺されヴァロワ朝が断絶する事態にまで発展したのです。
アンリ3世の死後、アンリ4世が即位しブルボン朝が創始。彼はユグノーにカトリックとほぼ同等の権利(信仰の自由や市民権)を与えるナントの勅令を発し、自身はカトリックに改宗することで、新旧教派両方の顔を立て、長年の宗教対立に一応の決着をつけました。
しかしこの勅令はのちにルイ14世が廃止してしまい、ユグノーへの弾圧を再開したので、大量のユグノーが国外に脱出していきました。この時点で現在に続くフランスのカトリック優位が確定したといえます。
18世紀末、フランス革命期に啓蒙思想が台頭したことで、無宗教者が増えていきました。またフランス革命前までは、教育というと神父が行うものでしたが、革命政府は教育に宗教が介入するのを良しとせず、国による公教育、政教分離原則(ライシテ)の方針を打ち出しました。
さらに19世紀に入ると植民地の拡大と同時に世界中で布教も行われましたが、本国では自然科学の発達により宗教離れはさらに加速していきました。19世紀後半になると、自由主義思想の強まりでカトリック離れはいっそう加速していたのです。
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