ドイツにおける1848年革命

ドイツを舞台にした1848年革命は三月革命と呼び、フランスの二月革命の影響を受けて始まり、メッテルヒの失脚により、ウィーン体制の崩壊に直接繋がった点で重要です。またドイツ三月革命は、大きくウィーン三月革命ベルリン三月革命に分けられる点も抑えておきましょう。

 

 

 

ウィーン三月革命

フランスの二月革命に刺激を受けた民衆が、首都ウィーンで蜂起を起こしたことで三月革命が開始されました。この革命によりオーストリア宰相メッテルニヒが失脚し、同氏がリードしていたウィーン体制が崩壊しています。同時にハンガリー民族運動やベーメン民族運動、ミラノ蜂起など、オーストリアからの独立運動も盛り上がるも(「諸国民の春」)、最終的にはロシアやオーストリアの軍隊に鎮圧されました。

 

革命後も専制主義体制は継続

またフランスの六月蜂起を受けて、憲法制定と自由主義の実現を約束していたオーストリア皇帝は態度を一変、革命運動を弾圧するようになったため、オーストリアでは結局、1848年革命後も専制主義的体制が継続することとなりました。

 

ベルリン三月革命

ベルリン三月革命

 

プロイセンの国王フリードリヒ=ウィルヘルム4世は、メッテルニヒ失脚のニュースやプロイセン以外の領邦でも、市民蜂起による新政府の樹立が相次いだことを受け、譲歩を決意しました。そして出版の自由や憲法制定を約束、国民議会をもつ連邦国家にする勅書を出しましたが、直後に王宮前に集まった民衆が発砲される事件が起き、怒った民衆によりベルリン暴動が発生します。

 

憲法制定は白紙に…

その結果、ブルジョア自由主義者を首相とする三月内閣が発足し、国民議会が招集されますが、ドイツ統一をめぐる対立やフランスにおける六月暴動などを受け、憲法制定議論は後退。最終的に国王は憲法の受託を拒否し、自由主義、立憲主義の実現は遠のいてしまったのです。