サラエボ事件の実行犯は、ガヴリロ・プリンツィプというセルビア人の19歳の青年でした。彼はオーストリア支配からの解放と南スラブ人の統一を目指す汎スラブ主義者(大セルビア主義)者で、わかりやすくいえば中世に繁栄し、14世紀末にオスマン帝国に滅ぼされたセルビア王国を復活させることを目的に活動していました。
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そしてセルビア王国の領土には、ボスニア・ヘルツェゴビナが含まれていましたが、1908年オーストリアに併合されてしまいます。これでセルビア王国復活の夢が潰え、汎スラブ主義者の反オーストリア感情はピークに達していました。
そんな状況下で、6月28日にオーストリア皇太子夫妻がボスニアに訪問するのです。これはコソヴォの戦いでセルビアがオーストリアに負けた日。大セルビア主義を掲げる人々にとっては挑発でしかなく、我慢の限界に達したプリンツィプらが強行に及んだ・・・というわけです。
逮捕直後のガヴリロ・プリンツィプ
犯行後プリンツィプは逮捕され、その他の実行犯では死刑になる者もいる中、彼は犯行当時19歳11か月と未成年であった為に、懲役20年の刑で済んでいます。しかしその4年後、肺結核により刑期を終える前に死亡しました。彼はセルビアでは「解放の英雄」として扱われており、2015年には銅像が建造され、その除幕式まで開催されています。
サラエボ事件は、ヨーロッパの政治的な均衡を大きく揺るがしました。オーストリア=ハンガリー帝国は、この暗殺事件を口実にセルビアに対して宣戦布告しました。これがきっかけとなり、すでに緊張状態にあったヨーロッパの大国間で同盟関係が動き、結果として第一次世界大戦が勃発しました。
この戦争は、全世界に及ぶ大規模なものとなり、数百万人の命が失われ、多くの国々が混乱に陥りました。戦争は、帝国主義の終焉、新たな国境線の引き直し、そして新たな国家の誕生をもたらしました。さらに、この戦争の結果としてのヴェルサイユ条約は、第二次世界大戦の遠因となるなど、その後の世界史に大きな影響を与えました。
プリンツィプはセルビアでは英雄として称えられていますが、彼の行動は世界史の流れを大きく変えたという意味で、多くの国々にとっては複雑な存在です。彼の行動が引き起こした連鎖反応は、20世紀初頭のヨーロッパの脆弱な政治状況を浮き彫りにしました。
サラエボ事件は、単なる暗殺事件ではなく、その背景には民族主義、帝国主義、政治的緊張など、当時のヨーロッパを取り巻く複雑な要因が絡み合っていました。この事件は、歴史上の重要な出来事として、今日でも多くの歴史家や学者によって研究され続けています。
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