ウィーン体制はヨーロッパ列強が協調し、革命運動や領土変更を抑制したことが特徴である。複数国間の外交会議と軍事同盟が秩序維持の柱となった。本ページでは、このあたりの歴史的背景と後世への影響について詳しく掘り下げていく。

ウィーン体制でブルボン朝が復活した理由
フランス革命とナポレオン時代の混乱後、ヨーロッパ列強は正統主義に基づきブルボン朝を復活させた。これはフランス国内安定と国際秩序維持を狙ったものであった。本ページでは、このあたりの歴史的背景と後世への影響について詳しく掘り下げていく。
まずウィーン体制というのは、フランス革命前のヨーロッパ秩序に戻そうとする保守反動的な政策方針のことです。そのヨーロッパ秩序というのは、絶対王政による国際秩序のことで、その手始めとして、フランス革命により一時追放されていた、ブルボン朝の復帰(ルイ16世の弟ルイ18世の即位)が行われたのですね。
ブルボン朝の復帰は、ウィーン会議の中でフランス以外の列強諸国により決定されたことです。列強諸国は結果的には勝利したものの、革命勢力の拡大やナポレオンの進撃に戦々恐々としていたので、もう二度と革命により自分たちの権益を脅かされたくなかったので、自分達に頭の上がらないブルボン王朝※を利用して、革命精神(とそれに火をつける自由主義や民族主義)を消滅させてしまおうとしたのです。
しかしご存じの通り、それはうまくいきませんでした。すでにナポレオン旋風によりヨーロッパの人々は自由や平等といった価値観で染まっていたため、保守反動的なウィーン体制に対する反発は日増しに強くなりました。
結局、1830年に共和派の起こした七月革命により、ブルボン王政はまたも打倒され、フランスは立憲君主制に移行することとなったのです。
ブルボン復古王政最後の王シャルル10世。極端な反動政治を行ったことから七月革命を引き起こし、王位を追われることなった。
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