ベラルーシの国旗
ベラルーシの国土
ベラルーシ(正式名称:ベラルーシ共和国)は、東ヨーロッパの ロシア連邦・ウクライナ・ポーランド・リトアニア・ラトビアに囲まれた地域に位置する 共和制国家です。国土の 大部分は低地であり、気候区は 亜寒帯湿潤気候に属しています。首都は 独立国家共同体(CIS)の本部が置かれていることで知られるミンスク。この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも家電製品・自動車などの生産がさかんです。また理数系人材の教育に注力してきた背景からIT産業もこの国の基幹産業となっています。
そんなベラルーシの歴史は、9世紀ごろに建設されたポロツク公国から始まるといえます。ポロツク公国以降この地域には10前後の公国が興りましたが、13世紀までに全てリトアニア大公国に併合されます。1772年以降、3度にわたるポーランド分割により、現ベラルーシのほぼ全域がロシア領となりました。1918年には初めての独立国家ベラルーシ人民共和国が成立するも、ポーランド・ソビエト戦争によって、ポーランドとソ連で領土が分割されます。第二次世界大戦後には、ベラルーシ全域が再びソ連領になりましたが、ソ連崩壊後の1990年に正式にベラルーシ共和国として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなベラルーシの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代ベラルーシの特徴は、様々な文化の影響を受けた多様な歴史と、スラヴ民族の定住による独自の文化形成が挙げられます。ベラルーシの地には、紀元前数千年の先史時代から人々が住んでおり、トラキア人、スキタイ人、サルマタイ人などの古代民族が交錯していました。
ベラルーシの歴史は、6〜8世紀頃にスラブ系民族が現在のベラルーシ地域に定住を始めたことから始まります。(古代にはすでに定住を開始していたともいわれています)その後、この地域に「国家」と呼べる政体が出来たのは、9世紀にキエフルーシの一部を形成していたポロツク公国が成立した時です。ポロツク公国は、その戦略的な位置から多くの富と文化的発展を享受。12世紀には、エウフロシニア・ポロツカヤのような重要な宗教的・文化的指導者が現れ、教会や修道院の建設が進みました。13世紀には、モンゴルの侵攻を避けるためにリトアニア大公国の保護下に入り、後にリトアニア大公国とポーランド王国の連合国家であるポーランド・リトアニア共和国の一部となりました。この時期、ベラルーシは西欧と東欧の文化が交錯する重要な地域となり、ルネサンスの影響を受けた教育や芸術が発展しました。
882年頃、ヴァリャーグから来たリューリクの末裔であるオレグがキエフを占領し、キエフ大公国を建国した。これにより、キエフはスラブ人の諸部族を統一する中心地となり、東ヨーロッパにおける最初の重要なスラブ国家の一つとしての地位を確立した。この政治体制の下で、現在のベラルーシ地域もキエフ大公国の一部として発展し、文化的および経済的な交流が促進された。
キエフ大公国の歴史書『過ぎし年月の物語』に、ベラルーシの都市「ポロツク」の名が歴史上はじめて登場する。
10世紀になると、現ベラルーシのポロツクを首都としたポロツク公国が成立する。現ベラルーシの首都であるミンスクも、この国の支配下に置かれていた。
974年、ベラルーシ第四の都市であるヴィーツェプスクが建立される。この街は東西の貿易路上に位置し、早くから様々な文化が交流する場となり、地域の政治・文化的な中心地の一つとして重要な役割を果たした。この都市の設立は、後のベラルーシ領域の都市発展と地域統合の基盤を形成する出来事となった。
11世紀後半、ニアミハ川河畔でポロツク公国とキエフ大公国間の武力衝突が起こった。この衝突は、地域の支配権を巡る長期にわたる緊張が高まった結果であり、両公国の力関係に大きな影響を与えた。この時期、ポロツク公国は独立性を高める動きを見せていたが、キエフ大公国はその影響力を維持しようとしていた。この衝突は、後の東ヨーロッパの政治地図にも影響を及ぼすことになる。
12世紀に入ると、現ベラルーシ第二の都市ホメリが成立し、同時期に第五の都市フロドナを首都としたグロドノ公国も成立した。これらの都市と公国の成立は、ベラルーシ地域の政治的および文化的分散を象徴し、地域内での独自の政治的エンティティの形成を促進した。特にグロドノ公国は、後のリトアニア大公国との関係や地域内の政治ダイナミクスに重要な役割を果たすことになる。ホメリとフロドナの発展は、ベラルーシの都市文化と商業の繁栄を後押しし、この地域の歴史的重要性を高めた。
現ベラルーシの首都ミンスクを首都としたミンスク公国が成立した。この公国はルーシの分領地として、地域の政治的、経済的中心地として発展し、東スラブ文化の一翼を担った。ミンスク公国の成立は、地域の自立性を増し、後のリトアニア大公国やポーランド王国との関係にも影響を与えた。
13世紀後半になると、ミンスク公国やグロドノ公国は影響力が増大したリトアニア大公国の支配下に置かれた。以後リトアニア大公国は18世紀まで現ベラルーシ、リトアニアを中心とした地域で優勢をふるうこととなり、ミンスク公国はその支配下で(主に貴族層だが)繁栄を享受できた。
ミンダウガスがリトアニアの諸部族をまとめあげ、リトアニアの初代王に即位。リトアニア大公国が成立した。このリトアニア大公国で使われていたルーシ語が、ベラルーシ語の祖語とされる。
1242年、ミンスク公国がリトアニア大公国に併合される重要な出来事が発生した。この併合はリトアニア大公国の領土拡大戦略の一環であり、この地域の政治構造に大きな変化をもたらした。ミンスク公国のリソースと戦略的位置はリトアニア大公国のさらなる勢力拡大を助け、バルト地域および東欧の政治地図に影響を及ぼすことになった。この併合により、ミンスクはリトアニア大公国の重要な行政区画の一つとなり、後の地域統合において中心的な役割を果たすようになった。
リトアニア大公ヨガイラと、ポーランド女王ヤドヴィガの婚姻が約束され、リトアニア大公国とポーランド王国との同君連合が形成される。
1392年、リトアニア大公国はポロツク公国(現ベラルーシのポロツク)を併合し、その領土を自国に組み入れた。この併合はリトアニア大公国の北東への拡大を示すものであり、地域の政治バランスに大きな影響を与えた。ポロツク公国の地理的な位置は、リトアニア大公国にとって戦略的に重要であり、商業ルートの確保と防衛の強化に寄与した。この政策は、リトアニア大公国の地域内での影響力を強化し、後の国家統合過程において重要な役割を果たすこととなった。
近世のベラルーシは、リトアニア大公国とポーランド・リトアニア共和国の支配下で発展しました。13世紀から16世紀にかけて、ベラルーシの都市はバルト海と黒海を結ぶ重要な交易路の一部として栄え、経済的繁栄を享受しました。特に、ミンスク、ブレスト、ポロツクなどの都市は商業と文化の中心地となりました。
1569年のルブリン合同により、リトアニア大公国とポーランド王国が合併し、ポーランド・リトアニア共和国が成立しました。この連合国家の中で、ベラルーシは政治的・経済的に重要な役割を果たしました。共和国内では、ルネサンスやバロックの影響を受けた建築や美術が発展し、カトリックと正教の両方の宗教施設が建設されました。
17世紀後半から18世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国は内外の圧力により弱体化し、ベラルーシの領土は最終的にロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国によって分割されました。この時期、ベラルーシの社会と文化は深刻な変化を経験し、ロシア化政策が進行しました。
近世のベラルーシは、複雑な政治的変動と多様な文化的影響を受けながらも、経済的繁栄と文化的発展を遂げた時代でした。
15世紀後半になるとポーランド文化の本格的な流入が始まった。上流階級を中心にポーランド語が使われるようになる。ベラルーシ語は平民の言葉として残った。
15世紀になるとルブリン合同により、ポーランド・リトアニア共和国が成立。ベラルーシもその支配下におさまる。共和国の治世で現ベラルーシの首都ミンスクは経済的・文化的に繁栄した。
ポーランド王国とリトアニア大公国が合同し(より正確には、ポーランドによるリトアニアの併合)、ポーランド・リトアニア共和国が成立。ミンスクにポーランド人高官が住まうようになり、ポーランド人コミュニティが形成された。
ロシア・ツァーリ国と、ポーランド・リトアニア共和国との間で大規模な戦争が起こる。この戦争の最中、現ベラルーシの首都ミンスクがロシアに占領された。
1667年、ポーランド王国がミンスクを奪還し、リトアニア大公国からこの戦略的都市を再獲得した。ミンスクの位置はポーランドの地域支配強化に重要で、長期的な領土安定に寄与した。
スウェーデンの利権をめぐる戦争「大北方戦争」が開始される。ポーランド・リトアニア共和国はスウェーデンと組み、反スウェーデン同盟と会戦した。この戦争の最中、ミンスクはスウェーデン軍、次いでロシア軍に占領される。
「ポーランド分割」によりポーランド・リトアニア共和国の領土が分割され、ミンスクを中心としたベラルーシ地域はロシア帝国に併合された。ポーランド語の地名がロシア語に書き換えられるようになる。
20世紀になり、第一次世界大戦中ベラルーシ人民共和国として史上初の独立を果たしますが、当初は軍隊も憲法も持たず、国家基盤が不安定だったので短命でした。まもなく白ロシア・ソビエト社会主義共和国の支配下に置かれ、ソ連構成共和国の1つとなります。その後の第二次世界大戦では独ソ戦の舞台となり一時ドイツ軍に占領されますが、バグラチオン作戦によりソ連が奪還に成功しています。
19世紀後半になると、ミンスクを中継点としたモスクワーブレストーワルシャワ間の鉄道が開通し、重要な交通拠点として栄えるようになる。
1830年、ポーランド・リトアニア共和国の独立を目指した「十一月蜂起」が発生するも失敗に終わった。この反乱はロシア帝国の支配に対する大規模な反抗として知られ、地域全体に大きな影響を与えたが、鎮圧された。
1836年、ミンスクに公立図書館が建造された。この図書館は文化的な中心地として機能し、地域社会の教育と啓蒙に大きく寄与した。この施設は市民に知識と学問のアクセスを提供し、文化的発展を促進する重要な役割を果たした。
ポーランド・リトアニア共和国独立を掲げた2度目の蜂起「一月蜂起」が発生するも再び鎮圧される。
オーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)を発端として第一次世界大戦が勃発。ロシアはセルビアを擁護する立場から連合国(協商国)側として参戦し、ベラルーシは戦闘の最前線に立たされた。
現ベラルーシ第三の都市マヒリョウには、ロシア帝国軍の総司令部が置かれました。
第一次大戦による不況からロシア革命が勃発し、ロシア帝国が崩壊する。
ロシア帝政崩壊の混乱の中、ベラルーシはドイツ軍に占領される。ベラルーシはブレストで結ばれたブレスト=リトフスク条約にもとづき、「ベラルーシ人民共和国」として独立を宣言した。政府はベラルーシ語を公用語に採用した。
赤軍がミンスクに侵攻し、ベラルーシ人民共和国は消滅。代わりに社会主義国家白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、ミンスクがその首都となった。
ソビエトの主導で、旧ロシア帝国領の複数の共和国による連邦が形成され、ソビエト社会主義共和国連邦(通称:ソ連)が成立した。ソ連主導の民族化政策により、伝統的なベラルーシ文化の復興が進んだ。
第二次世界大戦が勃発し、ソ連はポーランドに侵攻。東半分を占領し、白ロシアに編入した。
ベラルーシは独ソ戦(大祖国戦争)における激戦地となり、ドイツ軍による度重なる空爆で市街は多大な損害を被った。戦前約920万人いた人口の四分の一にあたる約220万人が戦争で死亡した。
ベラルーシのハティニ村(首都ミンスクより数十キロメートル)でナチス・ドイツによる虐殺事件(ハティニ虐殺)が発生。
ドイツ軍に占領されたベラルーシにおいて、赤軍による反抗作戦バグラチオン作戦が開始される。戦闘によりベラルーシ市街の破壊はより深刻なものとなっていった。
戦後はポツダム会談の決定に基づき、ベラルーシ全域がソビエト領ベラルーシ共和国として承認され、しばらくはソ連支配下の東欧社会主義勢力の一国として冷戦時代を過ごすこととなります。しかし80年代にソ連でペレストロイカが巻き起こると、東欧諸国で次々と民主化革命が勃発します。ベラルーシも例外ではなく、独立国として主権を宣言し、共和制に移行しました。そしてソ連崩壊に伴い、白ロシア(ベロルシア)から、ミンスクを首都とするベラルーシ共和国に国名を変更し、現在にいたっています。
第二次世界大戦終結後、ポーランド国境が西に移動し、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となった。スターリン様式の都市計画が立案され、戦闘で破壊された町も急速に復興していった。
第二次大戦中、ナチスドイツに抵抗するパルチザンの拠点になったことから、ミンスクに「英雄都市」の称号が与えられる。
80年代のペレストロイカをきっかけに、ベラルーシ語への関心が高まるなか、政府はベラルーシ語をベラルーシ唯一の公用語に指定した。
ソ連崩壊にともないベラルーシ共和国として独立を達成した。
1994年、アレクサンドル・ルカシェンコがベラルーシ大統領に就任し、その独裁的な統治スタイルから欧米に「ヨーロッパ最後の独裁者」と称される。彼の長期政権は国内外の政治情勢に大きな影響を与え、政治的自由や人権に関する国際的な批判を引き起こしている。
2004年憲法改正で大統領の多選が可能になり、ルカシェンコは長期政権を維持するための法的な基盤を固めた。この改正により、彼の統治はさらに強化され、政治的な対立や社会的な不満が高まる一因となっている。
2004年に国民投票により大統領の多選を禁じる憲法を改正し、3選への道を開く。そして2006年に任期満了にともない行われた大統領選挙で圧勝し3選を果たした。※不正選挙の指摘あり
2010年、アレクサンドル・ルカシェンコがベラルーシ大統領として4選を果たす。この選挙は不正が行われたとの疑惑があり、国内外からの批判を招いた。大規模な抗議行動が起こり、多くの反対派が逮捕されるなど、政治的緊張が高まった。
2015年、ルカシェンコは5選を達成し、さらに強固な権力の基盤を築いた。国際社会はこの選挙に懐疑的な見方をし、透明性や公正性の欠如が指摘された。しかし、国内では大きな抵抗運動は起こらず、彼の支配が続いた。
2020年、ルカシェンコは6選を果たすが、この選挙後には国内外からの反発が最も激しくなった。選挙不正の報告が多数寄せられ、数ヶ月にわたる大規模なデモが発生。警察による暴力的な弾圧が国際的な非難を浴び、政権の正当性が大きく問われることとなった。
ベラルーシの歴史は、多様な文化と政治的変動に満ちています。古代には、スラブ系民族が6〜8世紀頃に現在のベラルーシ地域に定住し、9世紀にはキエフ・ルーシの一部としてポロツク公国が成立しました。この公国は交易の要衝として栄え、13世紀にはリトアニア大公国の一部となりました。
16世紀のルブリン合同により、ポーランド・リトアニア共和国が成立し、ベラルーシはその重要な一部となりました。しかし、18世紀末にはポーランド・リトアニア共和国の分割によりロシア帝国の支配下に入りました。ロシア化政策が進行し、ベラルーシ文化や言語は抑圧されました。
20世紀初頭には、第一次世界大戦とロシア革命を経て、1919年にベラルーシ・ソビエト社会主義共和国が設立され、1922年にはソビエト連邦に加盟しました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの占領を受け、多大な被害を受けました。戦後は再びソ連の一部となり、社会主義体制下で復興と発展が進められました。
1991年のソビエト連邦の崩壊により、ベラルーシは独立を果たし、ベラルーシ共和国が成立しました。独立後は、政治的には権威主義的な体制が続いており、経済的にはロシアとの密接な関係を維持しながら発展を目指しています。ベラルーシの歴史は、外部の影響を受けつつも独自の文化とアイデンティティを築いてきた歩みです。
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