ベラルーシの歴史年表

ベラルーシの国旗

 

ベラルーシの国土

 

ベラルーシ(正式名称:ベラルーシ共和国)は、東ヨーロッパの ロシア連邦・ウクライナポーランドリトアニアラトビアに囲まれた地域に位置する 共和制国家です。国土の 大部分は低地であり、気候区は 亜寒帯湿潤気候に属しています。首都は 独立国家共同体(CIS)の本部が置かれていることで知られるミンスク。この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも家電製品・自動車などの生産がさかんです。また理数系人材の教育に注力してきた背景からIT産業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんなベラルーシの歴史は、9世紀ごろに建設されたポロツク公国から始まるといえます。ポロツク公国以降この地域には10前後の公国が興りましたが、13世紀までに全てリトアニア大公国に併合されます。1772年以降、3度にわたるポーランド分割により、現ベラルーシのほぼ全域がロシア領となりました。1918年には初めての独立国家ベラルーシ人民共和国が成立するも、ポーランド・ソビエト戦争によって、ポーランドソ連で領土が分割されます。第二次世界大戦後には、ベラルーシ全域が再びソ連領になりましたが、ソ連崩壊後の1990年に正式にベラルーシ共和国として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなベラルーシの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ベラルーシの歴史年表

 

古代ベラルーシ

古代ベラルーシの特徴は、様々な文化の影響を受けた多様な歴史と、スラヴ民族の定住による独自の文化形成が挙げられます。ベラルーシの地には、紀元前数千年の先史時代から人々が住んでおり、トラキア人、スキタイ人、サルマタイ人などの古代民族が交錯していました。

 

中世ベラルーシ

ベラルーシの歴史は、6〜8世紀頃にスラブ系民族が現在のベラルーシ地域に定住を始めたことから始まります。(古代にはすでに定住を開始していたともいわれています)その後、この地域に「国家」と呼べる政体が出来たのは、9世紀にキエフルーシの一部を形成していたポロツク公国が成立した時です。ポロツク公国は、その戦略的な位置から多くの富と文化的発展を享受。12世紀には、エウフロシニア・ポロツカヤのような重要な宗教的・文化的指導者が現れ、教会や修道院の建設が進みました。13世紀には、モンゴルの侵攻を避けるためにリトアニア大公国の保護下に入り、後にリトアニア大公国とポーランド王国の連合国家であるポーランド・リトアニア共和国の一部となりました。この時期、ベラルーシは西欧と東欧の文化が交錯する重要な地域となり、ルネサンスの影響を受けた教育や芸術が発展しました。

 

9世紀

9世紀のベラルーシは、現在の国境が明確に存在しない時代で、いわゆる「ベラルーシ」としての統一された政治体制はまだありませんでした。しかし、この時期は東スラヴ人が大きく動き始めた時代です。ベラルーシの地は、いくつかの東スラヴ系の部族によって分割されており、とりわけポラツク公国につながるポロツク人がこの地に定住していました。彼らは後に、地域の主要な勢力となるのです。

 

また、9世紀はキエフ大公国が勢力を拡大し、東スラヴ世界の中心となっていく時期でもあります。これにともない、ベラルーシの土地も次第にその影響を受けるようになります。かつ、ノルマン人(ヴァリャーグ人)がスラヴ世界に商業と軍事活動を通じて関わることで、地域は交易ルートとして重要な役割を果たすようになりました。

 

このように、9世紀のベラルーシの地は、東スラヴ部族の成長とキエフ大公国の影響が交錯し始めた時期で、後のポラツク公国の発展の基盤が築かれたのです。

 

882年頃 キエフ大公国の成立

882年頃、ヴァリャーグから来たリューリクの末裔であるオレグがキエフを占領し、キエフ大公国を建国した。これにより、キエフはスラブ人の諸部族を統一する中心地となり、東ヨーロッパにおける最初の重要なスラブ国家の一つとしての地位を確立した。この政治体制の下で、現在のベラルーシ地域もキエフ大公国の一部として発展し、文化的および経済的な交流が促進された。

 

862年 ポロツクの名が文献に登場

キエフ大公国の歴史書『過ぎし年月の物語』に、ベラルーシの都市「ポロツク」の名が歴史上はじめて登場する。

 

10世紀

10世紀になると、現ベラルーシの地でポラツク公国が成立し、ポロツクがその首都となりました。これは東スラヴ世界において、最も古くから存在する国家の一つとされています。ポラツク公国は、地理的に重要な場所に位置し、交易や軍事的な要所として成長しました。また、この時代には現ベラルーシの首都であるミンスクもポラツク公国の支配下にあり、重要な都市として発展を始めていました。

 

さらに、キエフ大公国との関係も密接であり、時には対立しながらも、この地域は東スラヴ世界の政治的・経済的な重要地となっていったのです。そして、ポラツク公国は徐々にその独自性を強め、周辺諸国との戦いや外交を通じて、自らの影響力を広げました。これにともない、地域の文化や宗教の発展にも貢献し、東スラヴのキリスト教化の一環として大きな役割を果たしました。

 

このように、10世紀のベラルーシ地域はポラツク公国の成立を中心に、政治的・経済的な基盤が確立され、後の発展への礎を築いた時代なのです。

 

974年ヴィーツェプスクの建立

974年、ベラルーシ第四の都市であるヴィーツェプスクが建立される。この街は東西の貿易路上に位置し、早くから様々な文化が交流する場となり、地域の政治・文化的な中心地の一つとして重要な役割を果たした。この都市の設立は、後のベラルーシ領域の都市発展と地域統合の基盤を形成する出来事となった。

 

11世紀

11世紀後半、現ベラルーシのポラツク公国は、独立性を強める動きを見せ始めましたが、その過程でキエフ大公国との緊張が高まりました。この対立が最も顕著になったのがニアミハ川河畔での武力衝突です。この戦いは、地域の支配権を巡る長年の緊張の結果として起こり、ポラツク公国とキエフ大公国の力関係に大きな影響を与えることになります。

 

ポラツク公国は、独立した勢力としての地位を確立しようとしましたが、キエフ大公国はその支配力を維持しようとし、両者はしばしば衝突しました。特にこのニアミハ川での戦いは、単なる一地域の争いに留まらず、後の東ヨーロッパの政治地図にも大きな影響を与える重要な出来事となりました。両公国の争いが、周辺諸国にも波及し、東スラヴ世界の秩序が再編成されるきっかけにもなったのです。

 

このように、11世紀のベラルーシはポラツク公国が独立性を高める一方で、キエフ大公国との対立が深まり、東ヨーロッパの政治情勢に大きな影響を与える重要な時代であったのです。

 

12世紀

12世紀に入ると、現ベラルーシ地域ではポラツク公国の内部で権力の分裂が進み、新たな公国が誕生しました。その中でも重要なのがミンスク公国の成立です。ミンスクは、元々ポラツク公国の一部でしたが、ポラツク内での権力争いにより独立し、ミンスク公国として独自の発展を遂げることになります。この新しい公国は、交易や戦略的な要地としての重要性が高まり、地域における勢力争いにも加わっていきました。

 

また、ミンスク公国はポラツク公国や他の東スラヴ諸公国との対立や協力を繰り返しながら、独自の地位を築きました。この時期、キエフ大公国の影響力が衰えたことも、ミンスク公国が自立した要因の一つです。さらに、リトアニアの台頭による北方からの脅威も増し、ポラツクやミンスクなどの公国は、外部の影響を受けながらも、独立した勢力として存続し続けました。

 

このように、12世紀はポラツク公国の分裂とともにミンスク公国が成立し、ベラルーシ地域はさらに多様化し、独立した公国同士の勢力争いが展開された時代なのです。

 

1101年ミンスク公国の成立

現ベラルーシの首都ミンスクを首都としたミンスク公国が成立した。この公国はルーシの分領地として、地域の政治的、経済的中心地として発展し、東スラブ文化の一翼を担った。ミンスク公国の成立は、地域の自立性を増し、後のリトアニア大公国やポーランド王国との関係にも影響を与えた。

 

13世紀

13世紀に入ると、現ベラルーシ地域ではポラツク公国やミンスク公国といった公国が依然として存在していましたが、地域の情勢は大きな変動を迎えました。この時期、ヨーロッパ全体ではモンゴル帝国の拡大が進行しており、東スラヴ世界もその影響を大きく受けることになります。モンゴルの侵攻(バトゥの遠征)は多くのスラヴ諸公国を破壊し、政治的な支配を受けることとなりましたが、ポラツクやミンスクは直接的な占領を免れました。

 

しかし、13世紀で特に重要な出来事は、リトアニア大公国の台頭です。リトアニアの勢力は急速に拡大し、ベラルーシの諸公国に強い影響を与えるようになりました。ポラツク公国やミンスク公国は、次第にリトアニアの支配下に入ることになります。リトアニアは、この地域の文化や宗教を尊重しつつも、軍事的・政治的に支配を強めていきました。

 

この時期、ポラツクやミンスクはリトアニア大公国に従属する形となりますが、その独自の文化や統治体制はある程度維持されていました。リトアニアの支配は、その後のベラルーシの歴史に大きな影響を与えることになります。

 

このように、13世紀のベラルーシ地域は、モンゴルの影響を避けつつも、リトアニア大公国の勢力拡大によって次第にその支配下に入る重要な転換期であったのです。

 

1236年 リトアニア大公国が成立

ミンダウガスがリトアニアの諸部族をまとめあげ、リトアニアの初代王に即位。リトアニア大公国が成立した。このリトアニア大公国で使われていたルーシ語が、ベラルーシ語の祖語とされる。

 

1242年 ミンスク公国がリトアニア大公国に併合

1242年、ミンスク公国がリトアニア大公国に併合される重要な出来事が発生した。この併合はリトアニア大公国の領土拡大戦略の一環であり、この地域の政治構造に大きな変化をもたらした。ミンスク公国のリソースと戦略的位置はリトアニア大公国のさらなる勢力拡大を助け、バルト地域および東欧の政治地図に影響を及ぼすことになった。この併合により、ミンスクはリトアニア大公国の重要な行政区画の一つとなり、後の地域統合において中心的な役割を果たすようになった。

 

14世紀

14世紀の後半、現ベラルーシ地域はリトアニア大公国の支配下で安定していましたが、さらに大きな転機を迎えたのが1385年のクレヴォの合同です。この合同により、リトアニア大公国とポーランド王国が強固な連合関係を結ぶことになりました。この時、リトアニア大公ヤガイロがポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランドの王となることで、両国は同君連合を形成し、ポーランド・リトアニア連合の時代が幕を開けました。

 

この連合は、ベラルーシの地域にとっても大きな影響をもたらしました。リトアニア大公国に属していたポラツクやミンスクなどの都市は、ポーランドとの結びつきが強まり、文化的・経済的に西ヨーロッパの影響を受けるようになります。また、これにともないカトリックの影響も次第に強まっていきましたが、同時に正教会の文化も存続しており、宗教的な多様性が保たれていたことも特徴です。

 

クレヴォの合同によって形成されたポーランド・リトアニア連合は、後の東ヨーロッパ全体の勢力図に大きな影響を与えることになり、ベラルーシ地域もその重要な一部として発展していきました。

 

このように、14世紀のベラルーシ地域は、クレヴォの合同を通じてポーランドとの連合が形成され、政治的・文化的に大きな変化を遂げ、ポーランド・リトアニア連合の重要な一翼を担う時代だったのです。

 

1385年クレヴォの合同

リトアニア大公ヨガイラと、ポーランド女王ヤドヴィガの婚姻が約束され、リトアニア大公国とポーランド王国との同君連合が形成される。

 

1392年 ポロツク公国を併合

1392年、リトアニア大公国はポロツク公国(現ベラルーシのポロツク)を併合し、その領土を自国に組み入れた。この併合はリトアニア大公国の北東への拡大を示すものであり、地域の政治バランスに大きな影響を与えた。ポロツク公国の地理的な位置は、リトアニア大公国にとって戦略的に重要であり、商業ルートの確保と防衛の強化に寄与した。この政策は、リトアニア大公国の地域内での影響力を強化し、後の国家統合過程において重要な役割を果たすこととなった。

 

近世ベラルーシ

近世のベラルーシは、リトアニア大公国とポーランド・リトアニア共和国の支配下で発展しました。13世紀から16世紀にかけて、ベラルーシの都市はバルト海と黒海を結ぶ重要な交易路の一部として栄え、経済的繁栄を享受しました。特に、ミンスク、ブレスト、ポロツクなどの都市は商業と文化の中心地となりました。

 

1569年のルブリン合同により、リトアニア大公国とポーランド王国が合併し、ポーランド・リトアニア共和国が成立しました。この連合国家の中で、ベラルーシは政治的・経済的に重要な役割を果たしました。共和国内では、ルネサンスやバロックの影響を受けた建築や美術が発展し、カトリックと正教の両方の宗教施設が建設されました。

 

17世紀後半から18世紀にかけて、ポーランド・リトアニア共和国は内外の圧力により弱体化し、ベラルーシの領土は最終的にロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国によって分割されました。この時期、ベラルーシの社会と文化は深刻な変化を経験し、ロシア化政策が進行しました。

 

近世のベラルーシは、複雑な政治的変動と多様な文化的影響を受けながらも、経済的繁栄と文化的発展を遂げた時代でした。

 

15世紀

15世紀に入ると、ベラルーシ地域はポーランド・リトアニア連合の一部としてますます統合されていきました。とりわけ、15世紀後半になるとポーランド文化の影響が強まり、上流階級ではポーランド語が使用されるようになりました。これにより、政治や文化の場面でポーランド語が主流となり、教育や文書にもポーランド語が使われるようになります。

 

一方で、ベラルーシ語は依然として平民の言葉として残り、日常生活や地方のコミュニケーションでは重要な役割を果たしていました。このように、言語の使い分けが進むことで、上流階級と平民との文化的な隔たりが生じていったのです。なお、この時期、正教会とカトリックの共存も続いており、宗教的にも多様な社会が形成されていました。

 

このように、15世紀のベラルーシではポーランド文化の流入が加速し、上流階級がポーランド語を使用する一方、ベラルーシ語は平民の言葉として残り、社会の中で言語的な区分が明確化される時代だったのです。

 

16世紀

16世紀に入ると、ベラルーシ地域は引き続きポーランド・リトアニア連合の支配下にありましたが、この時期にはさらに大きな変化が訪れます。特に、1569年に結ばれたルブリン合同によって、ポーランドとリトアニアの連合関係が一層強化され、ポーランド・リトアニア共和国が正式に成立しました。この新たな国家体制の下で、ベラルーシ地域はポーランドの影響がさらに強まることとなります。

 

この時期、上流階級を中心にポーランド文化の影響が拡大し、政治や教育の場ではポーランド語がますます支配的になりました。平民層ではベラルーシ語が引き続き使用されていましたが、文化的な格差が広がり、ポーランド語とベラルーシ語の使い分けが社会的な分断を生む要因にもなっていきました。

 

また、宗教面ではカトリックと正教会の対立が深まりましたが、東スラヴ正教徒の間では新しい宗教改革の流れも浸透し始め、16世紀末にはブレスト合同(1596年)によって一部が東方カトリック教会へと改宗する動きが起こりました。

 

このように、16世紀のベラルーシはポーランドとの連合関係が強化され、言語・文化・宗教の面で大きな変化が進行し、社会的な分断と宗教的対立が一層深まった時代だったのです。

 

1569年 ルブリン合同/ポーランド・リトアニア共和国成立

ポーランド王国とリトアニア大公国が合同し(より正確には、ポーランドによるリトアニアの併合)、ポーランド・リトアニア共和国が成立。ミンスクにポーランド人高官が住まうようになり、ポーランド人コミュニティが形成された。

 

17世紀

17世紀に入ると、ベラルーシ地域は引き続きポーランド・リトアニア共和国の一部として統治されていましたが、この時期は政治的・社会的に大きな混乱の時代となります。特にコサックの反乱大洪水時代(ポーランド語で「ポトープ」)と呼ばれる一連の戦乱が、ベラルーシを含む東ヨーロッパ全体を巻き込んで展開されました。

 

この時期、ウクライナのコサックとポーランド・リトアニア共和国との間で激しい対立が生じ、その影響はベラルーシにも波及します。1648年に始まったフメリニツキーの乱は、共和国全体を揺るがし、ベラルーシの多くの都市が戦場となり荒廃しました。さらに、ロシア・ツァーリ国がこの混乱に乗じて介入し、ベラルーシの領土の一部がロシアの支配下に入ることになります。

 

また、カトリックと正教会の対立も17世紀を通じて深まりました。ブレスト合同(1596年)によって東方カトリック教会(ユニアーテ教会)が成立したものの、正教徒との宗教的対立は激化し、地域の宗教的な分裂が続いていきました。

 

このように、17世紀のベラルーシは、コサックの反乱や大洪水時代の戦乱に巻き込まれ、ロシアの影響力が強まる一方で、宗教的対立が一層深刻化した混乱の時代だったのです。

 

1648年 フメリニツキーの乱

1648年に勃発した「フメリニツキーの乱」は、ウクライナ・コサックの反乱であり、ポーランド・リトアニア共和国に対する農民の不満が背景にありました。この乱は、ベラルーシにも影響を及ぼし、特にベラルーシの東部地域では農民が蜂起に呼応しました。加えて、ロシア・ツァーリ国がコサックを支援する中で、ベラルーシは戦争の舞台となり、共和国の弱体化とロシアの影響力拡大を招きました。この反乱が引き金となり、ベラルーシの独立性はさらに失われたのです。

 

フメリニツキーの乱は「大洪水時代」(ポーランド・リトアニア共和国に対する一連の戦争や反乱が続いた混乱期)の一部として位置づけられます。1648年からのこの乱は、ポーランド・リトアニア共和国の統治に対する不満が高まった時期であり、その後スウェーデンの侵攻(スウェーデン大洪水)やモスクワ大公国との戦争が続きました。これらの出来事は共和国に深刻な打撃を与え、ベラルーシもその影響を強く受け、領土や政治的影響力の縮小を余儀なくされたのです。

 

1654年 ロシア・ポーランド戦争/ロシアによるミンスク占領

ロシア・ツァーリ国と、ポーランド・リトアニア共和国との間で大規模な戦争が起こる。この戦争の最中、現ベラルーシの首都ミンスクがロシアに占領された。

 

1667年 ポーランドによるミンスク奪還

1667年、ポーランド王国がミンスクを奪還し、リトアニア大公国からこの戦略的都市を再獲得した。ミンスクの位置はポーランドの地域支配強化に重要で、長期的な領土安定に寄与した。

 

1700年大北方戦争(〜21年)

スウェーデンの利権をめぐる戦争「大北方戦争」が開始される。ポーランド・リトアニア共和国はスウェーデンと組み、反スウェーデン同盟と会戦した。この戦争の最中、ミンスクはスウェーデン軍、次いでロシア軍に占領される。

 

18世紀

18世紀に入ると、ベラルーシ地域は引き続きポーランド・リトアニア共和国の一部として存在していましたが、この世紀は政治的な大変革が訪れる時期でした。ポーランド・リトアニア共和国は内政の混乱や外圧によって徐々に衰退していき、周辺の強国であるロシア帝国、プロイセン、オーストリアが共和国の領土を狙うようになります。

 

その結果、18世紀後半にはポーランド分割が3度にわたって行われ、ベラルーシの土地もその影響を受けました。1772年、1793年、そして1795年に行われた分割の中で、ベラルーシ地域の大部分はロシア帝国に併合されることとなります。これにより、長くポーランド・リトアニアの支配下にあったベラルーシは、ロシアの領土となり、政治的にも社会的にも大きな変化がもたらされました。

 

また、ロシア帝国の支配下で、ベラルーシの文化や言語は抑圧され、ロシア化政策が進められる一方で、正教会の地位が再び強化されました。カトリックの影響力は縮小し、東方カトリック教会(ユニアーテ教会)は迫害を受け、正教への回帰が進んでいきます。

 

このように、18世紀のベラルーシは、ポーランド分割によってロシア帝国の支配下に入り、社会や文化に大きな変化が訪れた時代だったのです。

 

1793年 ポーランド分割/ロシアに併合

「ポーランド分割」によりポーランド・リトアニア共和国の領土が分割され、ミンスクを中心としたベラルーシ地域はロシア帝国に併合された。ポーランド語の地名がロシア語に書き換えられるようになる。

 

近代ベラルーシ

20世紀になり、第一次世界大戦中ベラルーシ人民共和国として史上初の独立を果たしますが、当初は軍隊も憲法も持たず、国家基盤が不安定だったので短命でした。まもなく白ロシア・ソビエト社会主義共和国の支配下に置かれ、ソ連構成共和国の1つとなります。その後の第二次世界大戦では独ソ戦の舞台となり一時ドイツ軍に占領されますが、バグラチオン作戦によりソ連が奪還に成功しています。

 

19世紀

19世紀のベラルーシは、ロシア帝国の支配下にあり、ロシア化政策が進行しました。ロシア語が公用語となり、ベラルーシ語やポーランド語は抑圧され、教育や行政はロシアの制度に変えられていきました。また、1812年のナポレオン戦争では、ベラルーシの地が戦場となり、多くの被害を受けました。

 

さらに、19世紀にはポーランド蜂起(1830年、1863年)が起こり、ベラルーシでも反乱が展開されましたが、ロシア帝国の厳しい弾圧により失敗に終わりました。

 

経済的側面では、1861年の農奴解放後、様々な課題を抱えながらも、都市化と産業化が進む時代となりました。19世紀後半になると、ミンスクを中継点としたモスクワーブレストーワルシャワ間の鉄道が開通し、重要な交通拠点として栄えるようになるのです。

 

このように、19世紀のベラルーシは、ロシア帝国によるロシア化が進む中で戦争や反乱が相次ぎ、社会的な変革が進んだ時代だったといえます。

 

1830年 十一月蜂起の発生

1830年、ポーランド・リトアニア共和国の独立を目指した「十一月蜂起」が発生するも失敗に終わった。この反乱はロシア帝国の支配に対する大規模な反抗として知られ、地域全体に大きな影響を与えたが、鎮圧された。

 

1836年ミンスクに公立図書館が建造

1836年、ミンスクに公立図書館が建造された。この図書館は文化的な中心地として機能し、地域社会の教育と啓蒙に大きく寄与した。この施設は市民に知識と学問のアクセスを提供し、文化的発展を促進する重要な役割を果たした。

 

1863年 一月蜂起

ポーランド・リトアニア共和国独立を掲げた2度目の蜂起「一月蜂起」が発生するも再び鎮圧される。

 

20世紀前半

20世紀前半のベラルーシは、まさに激動の時代を迎えました。まず、第一次世界大戦(1914年〜1918年)が勃発し、ベラルーシはその戦場となって甚大な被害を受けたのです。そして、戦争中にはドイツ軍による占領もあり、一時的にベラルーシの一部が支配されました。

 

1917年にはロシア革命が発生、ロシア帝国が崩壊した影響でベラルーシ人民共和国が独立を宣言しましたが、短命に終わります。その後、ベラルーシはソビエト連邦に編入され、1922年にベラルーシ・ソビエト社会主義共和国が正式に成立しました。これにより、ベラルーシはソビエト連邦の一部として強い共産主義体制下に置かれ、農業集団化や工業化が進められました。

 

また、1930年代にはスターリンの大粛清もベラルーシに波及し、多くの知識人や政治家が犠牲になりました。さらに、1939年の第二次世界大戦の勃発で、ベラルーシは再び戦場となり、ナチス・ドイツとソ連の間で分割占領されることになります。

 

このように、20世紀前半のベラルーシは、戦争と革命、そしてソビエト連邦への統合を通じて、政治的・社会的な大きな変革と混乱を経験した時代だったのです。

 

1914年 第一次世界大戦の勃発/ドイツ軍による占領

オーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)を発端として第一次世界大戦が勃発。ロシアセルビアを擁護する立場から連合国(協商国)側として参戦し、ベラルーシは戦闘の最前線に立たされた。

 

現ベラルーシ第三の都市マヒリョウには、ロシア帝国軍の総司令部が置かれました。

 

1917年ロシア帝国の崩壊

第一次大戦による不況からロシア革命が勃発し、ロシア帝国が崩壊する。

 

1918年 ベラルーシ人民共和国の建国

ロシア帝政崩壊の混乱の中、ベラルーシはドイツ軍に占領される。ベラルーシはブレストで結ばれたブレスト=リトフスク条約にもとづき、「ベラルーシ人民共和国」として独立を宣言した。政府はベラルーシ語を公用語に採用した。

 

当時のベラルーシはヨーロッパ有数のユダヤ人居住地域でしたが、ナチスドイツに占領されたことで多くのユダヤ人が粛清の対象にされました。

 

1919年 白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立

赤軍がミンスクに侵攻し、ベラルーシ人民共和国は消滅。代わりに社会主義国家白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、ミンスクがその首都となった。

 

1922年ソビエト連邦の成立

ソビエトの主導で、旧ロシア帝国領の複数の共和国による連邦が形成され、ソビエト社会主義共和国連邦(通称:ソ連)が成立した。ソ連主導の民族化政策により、伝統的なベラルーシ文化の復興が進んだ。

 

1939年 第二次世界大戦が勃発

第二次世界大戦が勃発し、ソ連はポーランドに侵攻。東半分を占領し、白ロシアに編入した。

 

1941年 独ソ戦の勃発

ベラルーシは独ソ戦(大祖国戦争)における激戦地となり、ドイツ軍による度重なる空爆で市街は多大な損害を被った。戦前約920万人いた人口の四分の一にあたる約220万人が戦争で死亡した。

 

1943年 ハティニ虐殺事件の発生

ベラルーシのハティニ村(首都ミンスクより数十キロメートル)でナチス・ドイツによる虐殺事件(ハティニ虐殺)が発生。

 

1944年バグラチオン作戦の開始

ドイツ軍に占領されたベラルーシにおいて、赤軍による反抗作戦バグラチオン作戦が開始される。戦闘によりベラルーシ市街の破壊はより深刻なものとなっていった。

 

現代ベラルーシ

戦後はポツダム会談の決定に基づき、ベラルーシ全域がソビエト領ベラルーシ共和国として承認され、しばらくはソ連支配下の東欧社会主義勢力の一国として冷戦時代を過ごすこととなります。しかし80年代にソ連でペレストロイカが巻き起こると、東欧諸国で次々と民主化革命が勃発します。ベラルーシも例外ではなく、独立国として主権を宣言し、共和制に移行しました。そしてソ連崩壊に伴い、白ロシア(ベロルシア)から、ミンスクを首都とするベラルーシ共和国に国名を変更し、現在にいたっています。

 

20世紀後半

20世紀後半のベラルーシは、ソビエト連邦の一部として大きな変革と発展を経験します。第二次世界大戦の終結後、ベラルーシは戦争による甚大な被害を受けたものの、復興が進められ、急速に工業化が進行しました。とりわけ1960年代には、都市部での工業生産が拡大し、ミンスクは重要な工業都市として発展していきます。

 

一方で、チェルノブイリ原発事故(1986年)はベラルーシに深刻な影響を与えました。ベラルーシ南部の多くの地域が放射能汚染を受け、数十万人が避難を余儀なくされたのです。これにより、経済や健康面での課題が長期的に続きました。

 

また、1980年代後半にはゴルバチョフの改革、すなわちペレストロイカグラスノスチが進められ、ベラルーシでも自由化の動きが活発化しました。そして1991年、ソビエト連邦の崩壊にともない、ベラルーシはついに独立を果たします。この時、正式にベラルーシ共和国が誕生し、新たな国家として歩み始めたのです。

 

このように、20世紀後半のベラルーシは戦後の復興と工業化、そしてチェルノブイリ事故の影響を乗り越え、最終的にソ連から独立するという歴史的な転換期を迎えた時代といえるでしょう。

 

1945年 第二次世界大戦終結

第二次世界大戦終結後、ポーランド国境が西に移動し、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となった。スターリン様式の都市計画が立案され、戦闘で破壊された町も急速に復興していった。

 

1974年ミンスクが「英雄都市」に

第二次大戦中、ナチスドイツに抵抗するパルチザンの拠点になったことから、ミンスクに「英雄都市」の称号が与えられる。

 

1990年ベラルーシ語が唯一の公用語に指定

80年代のペレストロイカをきっかけに、ベラルーシ語への関心が高まるなか、政府はベラルーシ語をベラルーシ唯一の公用語に指定した。

 

1991年 ベラルーシ共和国として独立

ソ連崩壊にともないベラルーシ共和国として独立を達成した。

 

1994年ルカシェンコの大統領就任

1994年、アレクサンドル・ルカシェンコがベラルーシ大統領に就任し、その独裁的な統治スタイルから欧米に「ヨーロッパ最後の独裁者」と称される。彼の長期政権は国内外の政治情勢に大きな影響を与え、政治的自由や人権に関する国際的な批判を引き起こしている。

 

21世紀

21世紀に入ると、ベラルーシは独立国家として、政治・経済面で大きな課題に直面します。特にアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の長期政権が続いており、1994年から現在に至るまで、権威主義的な統治が強化されてきました。彼の政権下では、政治的な自由や報道の自由が制限されており、これに対する国内外からの批判も多くなっています。

 

とりわけ2020年の大統領選挙では、不正選挙が疑われ、大規模な抗議デモが全国で展開されました。多くの市民が民主化を求めて街に出ましたが、これに対する政府の弾圧も厳しく、デモ参加者の逮捕や拘束が相次ぎました。これにともない、欧米諸国からの制裁が強化され、ベラルーシは国際的な孤立を深めています。

 

一方で、ロシアとの関係を強化しており、特に経済的・軍事的な支援を受けながら、ロシアに依存する形で政権を維持しています。経済的には依然としてソ連時代の産業構造が残る一方、IT分野での成長も見られ、ミンスクは「東欧のシリコンバレー」と呼ばれるほどの技術拠点となりつつあります。

 

このように、21世紀のベラルーシは、ルカシェンコ政権による権威主義とそれに対する抗議、そしてロシアとの密接な関係の中で、国内外での様々な難題に直面している時代なのです。

 

2004年 憲法改正

2004年憲法改正で大統領の多選が可能になり、ルカシェンコは長期政権を維持するための法的な基盤を固めた。この改正により、彼の統治はさらに強化され、政治的な対立や社会的な不満が高まる一因となっている。

 

2006年 ルカシェンコの再選

2004年に国民投票により大統領の多選を禁じる憲法を改正し、3選への道を開く。そして2006年に任期満了にともない行われた大統領選挙で圧勝し3選を果たした。※不正選挙の指摘あり

 

2010年ルカシェンコの4選

2010年、アレクサンドル・ルカシェンコがベラルーシ大統領として4選を果たす。この選挙は不正が行われたとの疑惑があり、国内外からの批判を招いた。大規模な抗議行動が起こり、多くの反対派が逮捕されるなど、政治的緊張が高まった。

 

2015年ルカシェンコの5選

2015年、ルカシェンコは5選を達成し、さらに強固な権力の基盤を築いた。国際社会はこの選挙に懐疑的な見方をし、透明性や公正性の欠如が指摘された。しかし、国内では大きな抵抗運動は起こらず、彼の支配が続いた。

 

2020年ルカシェンコの6選

2020年、ルカシェンコは6選を果たすが、この選挙後には国内外からの反発が最も激しくなった。選挙不正の報告が多数寄せられ、数ヶ月にわたる大規模なデモが発生。警察による暴力的な弾圧が国際的な非難を浴び、政権の正当性が大きく問われることとなった。

 

ベラルーシの歴史は、多様な文化と政治的変動に満ちています。古代には、スラブ系民族が6〜8世紀頃に現在のベラルーシ地域に定住し、9世紀にはキエフ・ルーシの一部としてポロツク公国が成立しました。この公国は交易の要衝として栄え、13世紀にはリトアニア大公国の一部となりました。

 

16世紀のルブリン合同により、ポーランド・リトアニア共和国が成立し、ベラルーシはその重要な一部となりました。しかし、18世紀末にはポーランド・リトアニア共和国の分割によりロシア帝国の支配下に入りました。ロシア化政策が進行し、ベラルーシ文化や言語は抑圧されました。

 

20世紀初頭には、第一次世界大戦とロシア革命を経て、1919年にベラルーシ・ソビエト社会主義共和国が設立され、1922年にはソビエト連邦に加盟しました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの占領を受け、多大な被害を受けました。戦後は再びソ連の一部となり、社会主義体制下で復興と発展が進められました。

 

1991年のソビエト連邦の崩壊により、ベラルーシは独立を果たし、ベラルーシ共和国が成立しました。独立後は、政治的には権威主義的な体制が続いており、経済的にはロシアとの密接な関係を維持しながら発展を目指しています。ベラルーシの歴史は、外部の影響を受けつつも独自の文化とアイデンティティを築いてきた歩みです。