
イタリアの代表的都市、水の都ヴェネツィアはイタリア王国建国の時点ではまだオーストリア領だった。
イタリア統一──それは19世紀のヨーロッパにおける壮大なプロジェクトでした。「リソルジメント(再興)」と呼ばれたこの運動によって、分裂状態だったイタリア半島が一つの国家へと統一され、近代国家としての歩みが始まります。でも実は、その「成功」の裏側には、意外と知られていない矛盾や問題点もたくさんあったんです。このページでは、イタリア統一のメリットとデメリットをあらためて整理しつつ、つい見落とされがちな本質的な課題にも踏み込んでみます。
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まずは統一によって何が実現したのか、ポジティブな面から見ていきましょう。
それまでイタリア半島は大小の王国や外国支配地域に分かれていましたが、1861年のイタリア王国の成立によって、一つの国家として政治的にまとまります。これは外交上の地位向上にもつながり、イタリアは列強の一角に加わる足がかりを得たわけです。
通貨の統一(イタリア・リラ)、単一の法制度、徴兵制度、国民教育──これらが一挙に導入されたことで、近代国家としての骨組みが整います。特に鉄道網の発展や関税の撤廃は、国内市場の統合を後押ししました。
しかし「統一されたからすべてが良くなった」とは限りません。さまざまな摩擦もまた、同時に生まれていたんです。
北部は産業化が進んでいたのに対し、南部は農村地帯が中心。ところが政策の多くは北部の利害を優先するかたちで進められました。その結果、南部では貧困や失業が深刻化し、移民の波が一気に広がることに。これが現在まで続く「南部問題」の原点となります。
「イタリア語」が浸透していたわけではなく、多くの国民はそれぞれの地域の方言(ナポリ語、シチリア語など)しか話せませんでした。こうした違いを無理やり“イタリア人”というアイデンティティでまとめようとしたことが、地方の反発や疎外感を生む原因にもなったんです。
歴史教科書ではあまり目立たないけれど、統一によって生まれた問題はほかにもあります。
リソルジメントの主役は、カヴールやガリバルディなど限られた政治家・軍人・知識層でした。つまり「国民のため」とされながらも、農民や労働者の声はほとんど反映されなかったという現実。こうした“上からの統一”は、のちに社会主義運動や反政府運動の土壌となっていきます。
1870年のローマ併合によって教皇領が消滅すると、教皇は「幽閉された」として国民への呼びかけを停止。これがローマ問題と呼ばれる国家と教会の長期的な対立を引き起こしました。国家が成立しても、精神的な統合にはまだ時間が必要だったんですね。
イタリア統一はたしかに“偉業”でした。でもその過程と結果には、いろんな歪みや矛盾が潜んでいたんです。「統一してよかったね」で終わらせず、そこにどんな光と影があったのかを見ていくことが、今のヨーロッパを理解する鍵にもなるわけですね。
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